「どうしよう、母さんが帰ってきた」

玄関からすぐのリビングに、まだハチと三郎がいる。
雷蔵は青ざめた。こんなに早く帰ってくるなんて思わなかった。言わなければ大丈夫だと思ったのに。安直だっただろうか。
高校に入って三郎と出会ったことを、母に隠したままでいた。なにかやましいことをしているわけではないが、なんとなく明かすことが怖かった。それが三郎や母にとって良いことなのかどうかわからない。母と子の二人で生きてきた、その危うい均衡が崩れるのを恐れていたのかもしれない。存在をひた隠しにされることは気分が悪いと思うのだが、悩む雷蔵に対して三郎は「雷蔵が話したいときに話せばいい」と言ってくれた。決断できるまでいくらでも待つから、という、その言葉に甘えていた。
どうしよう、と繰り返すことしかできない。胸が張り裂けそうだった。

「悩んでるバヤイじゃない。俺が行くから、とりあえず雷蔵は隠れてろ」
「え、なんで、ど……どこに!?」
「押入れとか布団に潜るとかあるだろ。あいつらがどうしてるか知らないけど、見た目雷蔵がふたりいるのはまずい」

冷静に判断を下す兵助に、雷蔵は迷いあぐねてからようやく頷いた。



『ただいま』という声に、三郎の笑い声は止まった。ハチは思わずテレビを消した。リビングに入ってきた女性は間延びした声で言った。

「雷蔵、帰ってたの。ハチくんもいらっしゃい」
「あ……、お邪魔してます」

ハチは、思わず三郎を隠すように立ち上がった。学校から来てそのまま制服でいるから、後ろ姿では雷蔵にしか見えないことに救われている。彼らの家庭の事情はいまだよく知らないが、三郎がここにいるのは不味いと思った。

「そんなに礼儀正しくしなくていいのよー。この間は野菜ごちそうさま」
「や、またなんか持ってきます」
「ありがとうね」

その人は、雷蔵によく似た優しい笑顔を浮かべた。テーブルの上に並んだ菓子類を見て、なにか言おうと口を開いたところで、ハチの背後から明るい声が響く。

「おかえりなさい。なんでこんなに早いの?」
「ちょっと書類を取りに来たの。これからまたすぐ出かけるわ」

その言葉に、ハチは少し胸を撫で下ろす。この場さえ乗り切ればよいということだ。
乗り切れるだろうか、と三郎を横目で見る。三郎はあまりにも平然と、雷蔵のような顔をしていた。穴が開いているはずの耳はちょうど髪で隠れていて、制服の着方もまさにそのものだ。

「それにしても雷蔵、テスト近いんじゃなかったの?」
「そうだよ。だから勉強会してたんじゃん」
「偉いわねえ、でも勉強会には見えないけど……」

部屋に持っていこうとしていた菓子類が並んでいるテーブルの上を横目で見ながら、その人は苦笑した。ふたりが座っていたのはソファだし、勉強用具はここにはない。テレビを点けていたこともばれているだろう。

「うるさいなあ、ちょっと休憩してたの!」
「あら……それって休憩のほうが長いんじゃない?」
「兵助もいるし、そろそろ戻るよ。ね、ハチ」

同意を求められて、ハチはただ頷くしかなかった。これは誰だ? 自分の認識を疑ってしまう。あまりにも違和感がないことに、違和感を感じずにはいられない。三郎と雷蔵の見分けはつくと思っていた。ふたりはたしかに似ているが、やっぱり別人で、雰囲気が全然違うのだ。だが、目の前の彼は――。

「ハチ!」

ドアを開けたのは兵助だった。ハチだけを呼んだのは、三郎とも雷蔵とも呼べなかったのだろう。やはり雷蔵の母に「お邪魔してます」と会釈した。

「お前ら、遅すぎ。やる気あんのか?」
「ごめーん。ハチがまだ帰りたくないっていうもんだから」
「なっ! さ、雷蔵、お前っ!! っいや、それはそうだけどさっ!」
「そうじゃん。せっかく兵助が教えてくれるのにさ」

三郎の性格悪さをひしひしと滲ませて、けれど見た目にはまるで雷蔵のように笑うから、ハチは混乱の極みだった。
「兵助くんにあんまり頼りすぎちゃダメよ」という、その人の言葉に、「わかってるよ」と少し不満そうに答えた。
「行こう」と、単純にただ口うるさい母親から逃れるように、ふたりの背中を押して部屋を出た。



廊下に出ると沈黙が痛くて、ハチは思わず小声で尋ねた。

「三郎…だよ、な?」
「ん? そうだよ」

いつもの声で答えた三郎は、おもむろに片手で顔を覆う仕草をした。それはなんだか、仮面を外す動作のように思え、息を呑んで見守ってしまった。

「だてに演劇部じゃないだろ?」

にぃっと口角を吊り上げた、その眼が獣のように鋭く輝いた気が、ハチにはした。三郎が演劇部であることも、すでに役柄を貰うほどの実力だということも知っている。だからといって、それとこれとは別問題だ。出会って数ヶ月の人間の声色・仕草・雰囲気まで、こうも完璧に演じられるものだろうか。――『違う』と、思う。

「うまく誤魔化せたみたいだな。よかった」

兵助は居合わせたのは束の間だったから、それほど不思議に思っていないようだった。結果オーライではあるが、なにかが引っかかって気持ち悪い。言葉では上手く説明できないが、ハチは消化しきれない想いを抱えることとなった。


玄関が閉まる音がしたので、雷蔵の母は再び外出したようだった。
部屋に戻り、雷蔵に事態の収束を伝えた。
さあ勉強会を再開しようか、というところで、三郎は自分の荷物を鞄に仕舞いはじめていた。

「じゃあ俺は今の内に帰るよ」

不自然なほど自然な笑みを纏って、当たり前のように告げた。
気まずく表情を固まらせた3人に対し、繕うように言いくるめた。

「どうせそんなに晩くまではいられなかったんだし、あんまり長居すると時間を忘れそうだからさ」
「三郎、ごめん」
「どうして雷蔵が謝るんだ?」

三郎は、まるで何も感じていないようなことを言う。守られているような、遠ざけられているような、そんな複雑さを雷蔵は覚えた。

「僕がもっとちゃんと気をつけてれば……」
「雷蔵のせいじゃない。気にするな」

三郎はきっぱりとした口調で、雷蔵を安心させるように微笑んだ。それはどこまで真実で、偽りだったのだろう。
ちゃんと勉強しろよとハチをからかい、兵助には数学で勝つかもしれないと軽口を叩き、雷蔵が玄関まで送ろうとするのを断って、笑みを浮かべたまま部屋を出た。



帰り道、夜の闇に溶け込みながら、知らず知らず三郎は爪を手のひらに食い込ませていた。
「ああ」「吐きそうだ」と、それこそ吐き出すように呟いた。
獣のように目を光らせ、殺気さえ滲ませた。自然と、すれ違う人々は彼を避ける。
まるで親の敵にあったかのような――実際は『親』そのものなのだが、そんな憎しみが胸を喰い荒らしていた。
それがどちらの『鉢屋三郎』なのかわからない。
『その人』に反応するべきは現代に生きた三郎のほうだが、この心のすべてを支配する憎しみは、世界で一番大切な人を喪ったときの闇が蘇ってきたかのようだった。あのときに似ている。呼び起こされたのだ。きっと間違えている、いろんなものが混ざっている。まるでドレッシングみたいなものだ。放置しておけば分離もするけれど、振ると混ざってしまう。ましてや強い感情に揺さぶられたなら、なおさら区別がつかない。どちらも鉢屋三郎であることに違いはないのだ。

その人と会う、可能性は十分念頭においていた。心構えはできているつもりだった。
だが実際にその女性と顔を合わせると、達観した自分は吹き飛んだ。これが自分を捨てた女だと思うと、決して平常心ではいられなかった。それは本能にまで刻み込まれた意識だったのだ。

もともと緊張も顔に出ないから、それと一緒で、憎しみも表には出さなかった。雷蔵という仮面を被っていたからちょうどよかった。つくづく自分が演じることに長けていてよかったと思う。ともすれば、殺気が滲んでしまったかもしれない。このどす黒く胸に渦巻く思いを彼らが見ることがあったら、なんと言うだろう。

すべてを繋ぎとめる理性が存在してくれたから、雷蔵のためだと思ったから、よかったのだ。
せめて彼らの前では偽り通すことができただろうか。

『憎しみはむなしい』とわかっている。けれど、頭でわかっていても、理性と感情は別だ。
できることなら雷蔵のように生きたいのに、かけ離れるばかりだ。


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