『ガラクタ姫』の九ヵ月後(3)

「会長さんは並木さんのことが好きだったんじゃないの?」

表札の文字が染谷じゃないから、まったく知らない人の家にお邪魔しているような気分になった。
そう、私はすっきりしない気分をどうにかするために、はるばる会長さんのところに遊びに来ているのだ。
結婚祝いとか新居祝いとか名目はそんな感じ。
出してもらった紅茶を飲みながら、聞いてみた。
新婚さんにこんなことを聞くのは失礼に違いないけれど、こんなときだけ子ども扱いして許してもらえるといいな。

私を歓迎してくれていた会長さんは、凍りついたように動きを止めた。
それから、自分を落ち着けるかのようにティーカップを口元に運んで、一口飲む。
落ち着きを払っているように見えるそんな姿も凄絶に綺麗だった。

「わからないわ」
「わからない?」
「たしかに並木さんは特別な相談相手で、今でも好きよ。
でも、親しい友人としての『好き』なのか、もっと別の『好き』だったのかはわからない」
「じゃあ、今の旦那さんのことのほうが好きになったの?」
「かえで」

ぴしゃりと、咎めるように名前を呼ばれた。

「人の思いは、何かで測れるものじゃないわ」

関係ない、と言われたようだった。
私だって人を好きになるのがどういうことかわからないわけじゃないのに。
俯いた私に、会長さんは続ける。

「そうね、たとえば仮に私が並木さんのことを好きだったとしても、
きっとどうにかなるということはなかったと思うわ。
並木さんはそれを望んでいなかったから。
お互いに気づかないふりを続けて、当たり障りなく過ごすのよ。
お互いに不器用だったのね。
けれど、いつまでも変わらないことは時が許してくれないでしょう?」

「でも、もしかしたら」

会長さんなら変えられたんじゃないかって私は思うのに。

「あの人は人の幸せを願うのよね。
自分のエゴで人を縛りつけておくことなんてできないのよ。
自分といることで誰かが幸せになるなんて考えもしないんだわ。
私は同じ道を歩んでもよかったのかもしれない。
けれど、そうすればあの人は自分のことを責めつづけるでしょう」

ああ、なんだ。
会長さんはこんなにも並木さんのことを理解して、考えていたのだ。
私も、並木さんにとって現状よりもいいことなんて思いつかないよ。

「私はかなでじゃない。
並木さんの傷を癒すことも理解することも同じ世界を見ることもできないんだわ。
望みのない人をいつまでも待っていられるほど私は強くなかった。
傷つけるってわかっていてまで相手を変えようとするほどまっすぐになれなかった。
私の弱さを受け止めて、私を必要としてくれる人に甘えてしまったのよ。
そして、私はそれが間違っていたと思わない」

会長さんはティーカップを置いて、ふっと私に微笑んだ。

「今が幸せだと思うから」

その微笑はあまりにも穏やかだった。
特に、仕事の話をしているときの凛とした表情とは違っていた。

「私の旦那さんは、……まだそう呼ぶと照れるけど、職場の部下なの。
仕事では失敗もするし、頼りないところがあると思っていたけど、
優しくて、ちゃんと頼りがいもあるのよ。
気持ちの整理をするのに、ずいぶん待たせた。待ってくれた」

そう話す会長さんが急に女性らしく見えた。

「かえでは、並木さんが幸せでいてくれるための条件はなんだと思う?」

聞かれて、すぐには答えられなかった。
今日此処にきた理由から考えれば、会長さんと結婚することだろうか。
そんな言い訳から入る考え方しかできなくて、絶対に違うような気がした。

「私は、たとえばかえでが幸せでいることだと思うわ。」
「私が?」
「そう。幸せを願われているのだから、幸せになればいいのよ。
女の幸せが結婚だとは言わないけど、間違ってはいないでしょう?
それで、並木さんが幸せになりたがるのを待つの」

まあ、あの人は今のままでも十分幸せそうだけど。と、
会長さんは笑って、私は思わず聞き返した。

「そう思う?」
「少なくとも私にはそう見えるわ」
「本当に?」
「だってかえでも幸せなんでしょう? 幸せってきっと伝染するものなのよ。
並木さんは並木さんなりに毎日を楽しそうだもの。心配には及ばないわ」


そういわれて、並木さんの姿が思い浮かぶ。
すごく弱い人だ。誰か大切な人が傷つくのを恐れている。傷つけたことに傷ついてしまう。
すごく強い人だ。その傷を抱えたままで生きていこうとするから。それができるから。


私は会長さんの言葉に納得して、すべてを割り切った。
形は一つではないのだ。
自分以外のことは、関係ないのではなくて、及ばないところにある。

今日の話は二人だけの秘密ね、と約束しあって、立ち上がる。
この家に、今度は並木さんと一緒に遊びに来られたらいい。


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