練習に向かう途中、グラウンドのフェンスの前で珍しい姿を見つけた。
遠くからでも目立つ長い黒髪に、横顔は白い。
きょろきょろと、誰かを探しているようだった。
その表情は曇っていて、誰かに声を掛けるわけでもなく、ただ困ったように、うろうろしていた。
野球部に知り合いがいるとしたら俺くらいのはずだ。
『知り合い』に認識されているのかどうかはわからないけど、ほっとけなくて声を掛けた。
「おい、内藤じゃねーか。どうしたんだ?こんなところで」
「山本くん……」
振り向いた内藤は見えなかった方の頬をハンカチで押さえていた。
ハンカチで押さえていても、腫れているのだとわかった。
息を呑んだ。女の子が、どうしたらこんなことになるんだ、と思った。
ましてや内藤は、潔癖なイメージがあるからなおさらだ。
学校内で一、二を争うと言われる美少女のそんな様子は異様そのものだった。
痛むらしく、顔が引きつって片目だけ潤んでいた。
それなのに、そのことに触れる前に、内藤は口を開いたのだ。
「信じてくれなくてもいいけど、」
内藤は、まずそう言った。
どうして当然のようにそんな悲しい言葉を、と思って、
すぐに、『信じなかった』のは自分だと気づいた。
半年も前の話だ。
けれど、災いを知らせてくれようとしたのに、それを無視した自分は消えない。
あの日湧き上がった自分の醜さは。
後で謝れば、『怒る理由がない』とまで言われてしまった。
それどころか、自殺しようとした俺に対して『生きててよかったね』と。
『挫折したことのない偉人はいない』と内藤は言った。
それを聞いた瞬間、鈍器で頭を殴られたような気分になった。
正直、忠告を聞かなかった俺は、哂われる覚悟をしていたから。
そんなのは妄想だったと思い知った。俺は馬鹿だともう一度思った。
信じられないようなことを人に話すというのはきっと勇気のいることで、特別なことだ。
しかも、俺のことを思っての行動だったのに。
そんなこともわからずに踏みにじってしまった。
内藤について、俺はよく知らない。
あれから、知りたいと思って話しかけることはあるけど、世間話で終わってしまう。
でも、今でもあんなことをしているのだろうか、とは思う。
信じてもらえない『忠告』を。
腫れた頬を見て、そんなことを思っていると、彼女はその事柄を口にした。
「また『予言』をしにきたの」
「予言、って……」
「リボーンにそう言ったんじゃないの?
ああうん、信じてくれなくてもいいけど、とにかく野球部の人が怪我するから。できれば……」
繰り返された『信じてくれなくてもいい』という言葉が再び胸に引っかかった。
それを言わせてしまう要因は未だ俺にあるのだろうか。
そして、信じてもらえないと思っているのに、内藤は迷うような口ぶりで俺に助けを求めていた。
頼られているという驚きもあった。
信じないわけがない。役に立たないわけにはいかない、と思う。
それは罪悪を償うためでもあり、個人的な興味や好意でもあった。
――『生きててよかったね』
――『挫折したことがない偉人って、いないと思うよ』
そう言った内藤は、悪いやつではないに決まっている。
それに、『野球部員が怪我をする』という事項は、
自分が故障したときの苦い経験と混ざって、聞き流すことができなかった。
大変なことだと思って、すぐに「誰だ?」と聞いた。
「わからない。顔までは見えなくて」
「背番号とか」
「……9番」
「佐藤か」
『見える』という言葉が気になったりはしたけど、俺にそれを聞く権利はない。
聞かないことが内藤の信頼を得る方法なのだと思う。
グラウンドを見渡し、その姿を見つけて一安心した。
けれど、それは未来に、これから確実に起こることなのだ。油断はできない。
どうやったら防げるかを考えた。
内藤は、わざわざ知らせにきたということは協力してくれるということだろうか。
「詳しいこと、わかるか?」
「練習中だと思う。2,3日以内だと思う。余所見をしていて、ボールがぶつかって」
内藤が懸命に説明しているとき、グラウンドにいた先輩が俺を呼んだ。
早く着替えて来いっていうのはわかるが、明らかにからかいを含んだ目をしていた。
そんな場合じゃねーのに。と舌打ちしそうになりながら、「すみません今行きます」と笑顔で答えた。
内心はイラついたが、それを内藤に向けるわけにはいかないので、軽い口調で言った。
「わかった、俺できるだけ注意しとくな」
野球部で起こることに内藤は関わりづらいだろう。
迷惑をかけたくはないし、上手くやれる自信もあった。
すると内藤は、なぜか泣きそうな顔で――少なくともそう見えた――たずねた。
「なんでそんなに簡単に信じちゃうの?」
「嘘じゃないんだろ?」
「違う」
「お前いいやつだもんな」
心からの言葉だったのに、内藤は眉を寄せて明らかに信じてないって顔をしている。
戸惑ってる、って感じか。これじゃあ立場が逆だ。
話題に困って、目がいって、やっと腫れた頬のことに触れた。
「そういや内藤、その顔どうしたんだ?」
「……勲章だよ」
内藤は多くは語らずに、そんなことを言った。
また痛そうな仕草をしたのに、声は誇らしげだったから不思議だった。
俺は、内藤がいつも何をしているのか知らない。
けれどきっと悪い未来を防げたとか、そういうお手柄だったのだろう。
「ごめん、任せたから。さよなら」
「ああ、気をつけろよ」
凛とした動作で踵を返し、よろめきながら歩いていく後姿を、俺は数秒間眺めていた。
『見惚れていた』と、後から外野に指摘された。
守りたいとか役に立ちたいと自然に思ってしまったので、否定はしなかった。
からかいの声に、「そうだな」と口に出さずに呟いた。