57.

空間に、大気に、現在に、世界に、過去に、未来に融けこんで、水になる。
液体に、鳥に、風に、流れになって、建物をすり抜け、並盛を目指す。
それは泳いでいるような、浮いているような、飛んでいるような、水中を歩いているような、不思議な感覚だ。

やるべきことは三つ。
警察に連絡する。沢田君に六道骸の恐ろしさ伝える。
そして自分の身の安全を確保することだ。

通報と言っても、ケータイもお金も鞄の中に置いてきてしまったから、
どこかで借りるか、それとも家に帰るかしかない。
一刻も早く黒曜から離れることは絶対条件だ。
そうやって優先順位を考えた結果、沢田君にケータイを借りればいいと結論付けた。
だから探す。

学校に行くと、すでに授業は中断されていたようで、生徒はいなくなっていた。
不本意で今日一日サボることになってしまった本来優等生な私としては少しありがたい。
この事態なのだから、おとなしく家に帰っていてくれているといいけれど。
と思いながら、幾多の過去から選び抜いて、跡を追う。

――恭弥の手を握ったとき、私には過去が見えていた。
桜舞う季節に起こった、事件を知った。
ああ、完全無欠だった恭弥に弱点を植えつけたのも彼らだったのだ、と知ってしまった。
酷い目にあった、こんなことになった一因が彼らにある。
一方で、私だって彼らの情報を売ってしまった。被害者で加害者なのだ。

諸悪の根源は六道骸以外の何者でもない。
彼らを恨みたくは、ない。そんな場合ではない。
六道骸は、次に獄寺君が怪我をするのだと言っていた。本当の狙いは沢田君らしい。
私は獄寺君は苦手だけれど、憎いわけじゃない。
なんだかんだ言って、彼らとは多少の縁があるつもりなのだ。


そう思って、彼らの元に向かっていたのだけれど、
あるとき、急に壁に突き当たったように息苦しくなった。
『おかしい』と思うまもなく、全身に糸が絡みつくように体が不自由になっていく。
あぁ、これは潜水のような状態なのか。

そこで私は、タイムリミットが迫っているのだとようやく気づいた。
いろんなことを考えすぎたのだった。
そもそも今は、『奇跡』を乱用している状態なのだ。
これはヒトの持てる感覚ではない。
私にだってよくわからない。
それはあまりにも掴みようのない、不確かな。

あのときは、必死で、恭弥のことしか考えていなかった。
その一途さを容易く維持できるほど私は器用ではない。
私はどうして再びこの得体の知れない深い海に身一つで潜ろうとなんてしたのだろう。

帰還を求める声に呼ばれる。現実が私を引き寄せる。
あんなにも軽かったはずの身体に、重荷が付加されていく。
消えそうな幻の中にいる私は、足掻くしかない。押しつぶされそうな恐怖。
冷静になろうとすればするほど、たとえば夢から醒める寸前みたいに、現実と非現実の狭間で軋む。
幻想のようなものだ、思考で制御できるような力ではないのだ。
感情だけでここまできたのに、思考が鮮明に追いついてしまう。

このまま、誰にもわからず消えてなくなるのだろうか。
そんな、恐ろしいことを思ってしまった。

それはイヤだ。
だって、あらゆることがダメになってしまう。何も守れない。
せめて此処に来た役目を果たさなければ、おちおち消えるわけにはいかない。
まったくもって立ち止まっている場合ではないのだ。
もしもこの奇跡が私のために起こったのならば、どうかもう少しだけ叶えてほしい。

死んでしまいそうなほど息苦しくて、意識が霞んでいる。
思考はなんとか繋がるけれど、視界はぐにゃぐにゃと歪んでいる。
進もうとすると身が裂けるような、割れそうな、抵抗がある。
ここが海の底ならば、私はとっくに酸素を有していない。
それでも、それでも。

ようやく『沢田』と書かれた表札を見つけ、そして、その玄関先に彼らを見つけた。
それが現在だとわかったとき、私は叫んでいた。

「沢田君っ!! 山本君!」

途端、私を宙に拘束していた無数の糸が断ち切れた。
世界に産み落とされたように、伸ばした手から、外の空気に触れていく。
急速に重力がはたらいて、地面に引き寄せられる。
あまりに突然に現実に戻されたものだから、
足元の感覚を忘れていて、うまく着地ができず、崩れ落ちた。
まるでついさっきまで魚だったように無様だった。
痛い、と手をついて、足りない酸素を補うように、
呼吸の仕方を思い出すように、荒れた息を繰り返す。
こんなに苦しさは、もう二度と体験したくない感覚だと思った。
まだ涙が滲んでいた。頭がガンガンと鳴っている。吹き抜けたそよ風が生ぬるかった。

「内藤さん!?」
「かえで!!」

一番先に視界に入ったのは沢田君。
それに山本君、獄寺君、リボーンと、獄寺君のお姉さん……かな?
それぞれが驚いた顔で突然現れた私を見ている。

こんなふうに登場したかったわけじゃない。しょうがなかったの、不可抗力なの。
あらためて手のひらを見つめながら、自分の特異性を痛感する。
私は、それが嫌でたまらなかったはずなのに。

「今どうやってっ っていうか、今までどこにいたのっ!? 事件に巻き込まれたりは……!」
「恭弥が、捕まってるの。桜の、せいよ。犯人の名前は、六道骸。
ボンゴレ……あなたたちが狙いだと言っていた。だから逃げて」

指摘されることが怖くて、面倒な追及を無視した。
用件だけをまとめて話すと、沢田君は表情を固めた。
少しだけ皮肉を込めてしまったせいだろうか。
そのわりに『逃げて』だなんて、前後の文章が繋がっていないね。
代わってリボーンが私に質問を始める。

「オメー、六道骸に会ったのか」
「うん」
「だ、大丈夫なのっ!?」
「私は、なんとか」

本当は囚われて、酷なものを見てしまったんだけれど、今それを言ったって仕方ない。
沢田君を見上げて、彼のTシャツの裾を掴んだ。

「逃げて。隠れて。それから、警察に連絡しなきゃ」
「け、警察?」
「だって恭弥がまだ黒曜にいるから、どうにかしなきゃいけないの。
他人任せかもしれないけど、ちゃんとしたところに通報しなきゃ」

すると、沢田君は苦々しく顔を歪めた。
山本君を見ても、気まずそうな表情で頬を掻いている。
リボーンが低い声で告げた。

「そいつは無理だぞ。こいつは警察にどうにかできる問題じゃねえ」

絶望が胸を突いた。

「オメーも自分が言ってる矛盾に気づいてんだろ?
並中の風紀委員会は警察をも従えてる。
ヒバリを倒したような相手にただの警察が敵うわけがねえ」

必死で考えないようにしていたことをずばり指摘された。
認めることが嫌だった。だって絶望したくなかったから。
無力な私は、それ以外のすべを知らないから。

「警察にもいろいろ……あるでしょう? ちゃんと説明すれば……」
「それほどの証拠や理由があんのか? ガキの戯言だな」

正真正銘の子供にガキと言われて かちんときたけれど、言い返せない。
わかっていた。自分の考えが穴だらけだってことくらい。
でも、迷っていては進めなかいから、せめてひたすら信じたかったのに。

「じゃあどうすればいいの!?」
「……俺たちが六道骸を退治する」

そう表明したのは沢田君だった。
意を決したような言い方で、獄寺君は頷き、山本君も笑顔が同意を示している。
私は六道骸の闇を思い出して、とんでもないと首を振った。

「無理。無理なの。逃げて!」
「オメーは何に怯えてんだ?」

リボーンが私を覗き込む。たしかに怯えているのかもしれない。
マフィアとか言っていても、平凡な彼らがあの闇に敵うと思えなかった。

「知らないからそんなことが言えるの。後悔してからじゃ遅いの!」
「ツナは九代目から骸退治の命も受けてる。これは俺たちの問題だぞ」

たしかに、一番危ないのは彼らなのだ。
本当は、私にとって、恭弥だけを助けたいのならば、彼らが赴いてくれたほうがいい。
六道骸の狙いは彼らなのだから、他は見逃されるかもしれない。
恭弥の心配をしつつ、彼らに逃げてくれと請うのは矛盾しているのかもしれない。
こういうのをジレンマっていうだ。
でも、ここで彼らを見捨てたならば、私は『あのとき』と同じ後悔をする。

「内藤さん。内藤さんが気にしなくていいよ。俺たちがなんとかするから、さ……」

無責任で頼りない言い草だと、否定しようとしたけれど、沢田君は瞳に決意を据えていた。
そこには、入学当初『ダメツナ』と呼ばれていた面影などなかった。
かわりに、たくましい表情がある。
ああ、彼は変わったのだ。頼れる男の子になっていたのだ。
真摯な視線を受けて、頭ごなしに否定できなくなる。

「勝てるつもり、なの?」
「テメーに心配されるようなことじゃねえんだよ」

うざったそうに、獄寺君までそんなことを言う。
山本君はいつもの明るい笑顔で私の頭に手を載せた。

「かえで、俺たちを頼れって。な?」

罪悪感。助けてほしい。助かってほしい。頼りたい。縋りたい。
そんなふうに、数え切れない思いが胸を迫り上がってきて、
私は、ついに『縋る』を選択してしまった。
どうにかできるものならばしてほしい。
これは見てみぬふりではないのだ。
彼ら自身が選んだことなのだと言ってくれるから。
彼らの覚悟に見合う意志を、私も持とう。
もしも後悔することになっても、それくらいの罪悪は受け入れよう。
「わかった、まかせる」と一つ頷き、死なないでよと願った。


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