56.

薄暗い廊下を走る。ここは過去の映像の中である。
神経を研ぎ澄まして、現在に近い過去になるように時間帯を調整し、四次元の中で恭弥を探す。

『現在』の私は相変わらずに、さっきの部屋で柱に手首を繋がれて座っている。
その認識は忘れてしまいそうなほど僅かなものだけれど、意識すれば引き戻されそうになる。
虚像と実像のつながりは、まるでどこまでも伸びる長い一本のロープが足に結んであるようだ。
たぐり寄せることはしない。前だけを見る。伸びるだけ伸びればいい。それは私が帰り道を失わないための道しるべにすぎない。

本体の場所から離れるだなんて、経験のない無茶をしている。
それでもここで引き返すなんて選択肢があるはずもなく、ひたすら恭弥の居場所を探して走っている。
この思いはなんだろう。理由付けを忘れて、『会いたい』と全身が叫ぶ。
本能みたいに、その姿に一目出会えれば何か変わる気がする。直感であり、確信だ。

走りながら、ふと、
『映像の中で物体に触れることは出来ないのに、どうして走ることはできるんだろう?』と思った。
考えるべきじゃなかった。その瞬間、何かに躓いたみたいに、地を蹴る感覚を失った。

「わっ」

色が分からなくなったり、音が聞こえなくなったかのような、感覚の欠落を味わう。
自分の足を見失い、無重力みたいに宙を掻く。
動いているはずなのに空気がぶつからない。
走っているということがどういうことなのかわからなくなる。

それでも、たとえば暗闇で自分自身が見えなくても、存在していることに変わりないように、
どうやってか、まだ進めているらしい。景色だけがたしかに動き、すれ違っていく。

ここはどこ。わたしはなに。
視界は一度歪んでから、どこか色合いを変えてクリアになった。
身体が軽くなったような、重くなったような、不思議な気分だ。

宙に浮いているような、水の中にいるような。
……そう、海やプールに入った幼い日がデジャブする。
私が大嫌いな感覚、水泳の授業を全部見学してまで避けてきた。
懐かしい、久しぶり。だけど、これは昔味わったそれらとはまた違う。
膨大な情報が流れ込んで、麻酔のようにくらくらする。意識を乗っ取られそうになる。
抵抗するのが辛い。いっそすべて委ねてしまいたい。逃げたい、消えたい、融けたい。
ああ、このままでは『私』の定義が書き換えられてしまう。

引き返すのは簡単なことだ。
『現在』で、柱から手を離せばいい。
今ならきっと、意識のロープをたぐり寄せられる。

でも、ここで引いたらもうなす術はなくなる。もう一度同じことができるとは思えない。
それは私の勇気の問題でもあり、無茶をすることで何かを消耗していると感じているせいでもある。
だから、これが最初で最後だ。
かき集めた、なけなしの勇気が零れ落ちていっても、最後の一握りは手放したくない。

意を決すると、命綱だったロープが切れた。
世界という激流に巻き込まれる。

身体が気化して、空気に溶け込む。
融けて、『私』という形を失っていく。

人らしい感覚がわからなくなる。――痛いってなんだっけ。つらいって、苦しいってなんだっけ。
汗が滲むような、身震いがするような、不安と衝動がある。温度ってどういうことだっけ。
指先の感覚はどこにあるだろう。天井と床の区別がつかず、上下左右の違いもわからなくなりそう。
それでも探せるから、目指すものだけを胸に、進む。
風のように、波のように、流れのように、水を得た魚のように、加速する。

壁をすり抜けて、次々と部屋を通る。
途中に、六道骸や黒曜中の制服を着た生徒を見かけて、そばを風のように横切る。
そして、ようやくその人を見つけた。


「恭弥っ!」

呼びかけると、恭弥は顔を上げた。
視線が重なり、我に返った。その混乱に驚きを隠せなかった。

必死でここまで来て、思わず声を出してしまったけれど、
ここが過去ならば、私に干渉できるはずはない。
現在の『私』はあの部屋にいるはずだった。
過去に飛び込んだ私は、そもそも『私』という形を失っていたはずだ。
現実と幻影が、過去と現在の認識が交錯する。

恭弥は怪我を負った身体を支えるように片膝を立てている。
瞳は生気を失ったように暗く、ぼうっと私を見た。
それから表情を揺るがせて、驚いたように声を出した。

「……かえで?」

その一言で、世界は現実感を帯びる。
私はあなたに会いにきた。それで十分だった。
身体が形を思い出して、融けていた空間から分離する。
ゆるやかな風が浮遊感を解いていき、足が床に着地する。
初めて呼吸したかのような新鮮な酸素が肺をみたした。

「恭弥」

溢れる思いに、崩れ落ちるように膝を折って、触れられる位置までにじり寄る。
変だな。会いたかった顔が見られて、いとしさが募って口元は綻ぶのに、視界が滲んで声が涙掛かる。
恭弥は身動きしようとして顔を歪めたから、慌てて制止する。
見える限りでも痛そうなのに、見えないところも怪我しているんだろうか。
この孤高の人の、こんな姿を見る日が来るなんて思わなかった。来なくてよかったんだよ。

「動かないで。そのままでいいから、どうか無理しないで。
だいじょうぶ? な はず、ないよね……」

自分が怪我をしたわけじゃないのに、泣きそうになる。情けないな。
人の弱点に付け込むなんて六道骸は卑怯だと思う。
そんな私の心配を恭弥は煩わしそうに視線で突っ放した。
心配されることが恭弥にとって不本意だってわかってる。
屈辱に触れるべきじゃないことはわかっている。私の、甘えだ。
辛そうな姿に、やっぱり心配でたまらなくなる。心配はいけないことだろうか。

「……今、どうやって?」

私は、恭弥から見たら突然現れたことになるんだろうか。
過去と現在が結びついた瞬間をうまく説明できない。
知らぬまに手首の拘束は外れているけれど、赤く痕が残っている。
床に座っていたせいでスカートが汚れている。つまり、どちらも紛れもない現実だ。

「わからない。恭弥に会いたくて、強く願ったらここまで来ちゃった」

私はごまかすようにただ微笑んだ。声が涙掛かってうまく出ない。
宙に融けるあの感覚をまだ覚えている。病んでいるみたいに頭が熱くなって、痛い。
熱に浮かされているのかもしれない。異常なくらい大きな心臓の音は警鐘にも似ていたけれど、
私はここにいるから、聞こえないふりをした。今はそんなことにかまっていられない。

「捕まってたんじゃ、なかったの」

その質問は容赦なく私の弱い部分に突き刺さった。
私があのときちゃんと見えたことを伝えていれば、囚われたりしなければ、現在が違っていたかもしれない。

「……ごめん、ごめんね。ほんとうにごめんなさい」

数え切れない謝罪を零して俯くことしかできなかった。
置いてきたはずの後悔とか、現在の状況が数珠繋ぎに思い出される。まだ何も変わっていないのだ。
どうしよう。私、どうしたらいい?
恭弥は慰めるように私の髪に触れて、かすれた声で言った。

「なにバカみたいに謝ってるの」
「だって……」
「きみ、ワープもできたんだね」
「私も初めて知ったの……」

恭弥のすぐそばで、可愛い小鳥が、私を不思議そうに見つめていた。
なんで小鳥がこんなところにいるのかわからない。
『何泣いてるの』と言われているみたいで焦るけど、止め処ない。
後悔とか懺悔とか心配とか安堵とか安心とかが混ざって、ぐちゃぐちゃだ。
だって、怖かった。怖かったんだよ。

「まったく、君は僕の牙を鈍らせてくれるね」

呆れるようなその言葉の意味を捉えて、じわっと胸が目頭が熱くなり、もう止まらなくなる。
だってそんなの反則だ。心配してくれたってことでしょう。無事で安心してくれたってことでしょう。
差し出された恭弥の手をたしかめるように何度も触れて、縋るように握り締めて、
嗚咽も殺さず、ようやく声を上げて泣いた。
胸に溜まっていた感情を吐き出すように、自分の声じゃないみたいに部屋に響いた。

弱がる私を、恭弥は黙って見ていた。何も言わず、表情も動かさず。
けれど、その手のひらは胸が苦しくなるくらいあたたかかった。
答えがほしいわけじゃなくて、魔法の呪文みたいに何度も名前を呼ぶことを許してください。


どれくらいそうしていただろうか。
いつまででも泣けてしまうから、顔を上げて、憎まれ口でも利いてみる。

「それなら、あなたは私の涙腺をゆるませてしまう、ね。
わたし、むかしはこんなに泣き虫じゃなかったのに。さっきまでは、だいじょうぶだったのに」
「ちょっと黙ったら」

たしかに声涙倶に下る状態で喋ろうとするには無理があった。
恭弥の声は静かだ。傷の舐めあいを嫌っていたはずなのに、このときに幸せを見出してしまう。
ありがとう、と感謝を胸の内で呟いた。恭弥の手をぎゅっと握る。
体中の感覚をフル動員して、その体温を記憶に刻み込む。きっとだいじょうぶ。

さあ、立ち上がろう。私は恭弥を見つめた。

「待っていて。今、誰か呼んでくる」
「無理だよ。出口は閉まってるし、へたに動くと君がここにいることが見つかる」

出口が閉ざされていても、普段の恭弥なら壁を壊してでも外に出られそうなものだけど、
桜のこともあるし、そんな気力がないくらい怪我が酷いのだろう。そう考えるとさらに胸が痛む。

手段がないわけではない。
過去に融け込むあの感じを覚えている。

「大丈夫。きっと今なら、さっきと同じことができるの」

立ち上がると、足元がふらついた。
すると、強く腕を掴まれて動けない。
恭弥が気だるそうな目で、けれど鋭く私を睨んでいた。

「僕の前から消えるつもり?」
「それで何か変わるのなら」
「許さないよ」
「……消えない。せめて、通報してくるの。だってこのままじゃ恭弥が」

その先を口に出すのは恐ろしかった。
絶望を忘れて、希望だけを見ていたい。
できないことよりも、できることの数を数えたい。

「それならここに戻ってこなくていいから、今度こそ安全な場所でじっとしてなよ。それが条件」
「――うん、わかった」

心配されることが嬉しくて頷いた。実際はどうなるかわからないけれど、できるだけ守りたい。
掴まれているのと反対の手を伸ばして、空間に翳す。
流動しているがゆえに現在との境は曖昧だけれど、大気にも過去があることを知った。
読み取るように、融け込むように、さっきの感覚を思い出す。私は微笑んだ。

「いってくるね」


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