55.

彼が部屋から立ち去って、静かになった空間に取り残されると、再び地獄を思い出して吐き気がこみ上げた。
せめて口元を手で押さえたいのに、手首を拘束されているからそれもできない。
うずくまって歯をくいしばってひたすら耐えていると、涙が滲んだ。
視界は歪む。ぐるぐると映像が脳裏を巡る。本当に泣きたいくらい苦しい。

けれど泣く自分を許せなかった。身体には怪我一つない。
たしかに『見る』苦しみは誰とも比べられないほど大きいけれど、それ以上の自己嫌悪が襲いくる。
私は恐怖に負けて六道骸の質問に答えていってしまったのだ。
その瞬間から加害者にもなってしまったと言える。
じわじわと自分の行為を振り返ると、世界に糾弾される気分になった。

六道骸は、マフィアを憎んでいると言っていた。
無関係の一般人でさえもあれだけ痛めつけた。
ならば彼らは、マフィアである沢田君たちはやがて殺されるんじゃないだろうか。
そう思うと新たな吐き気がこみ上げてくる。

ああ、もう。
どうして私はいつも変えられるはずの悪い未来を防ぐ努力を怠るんだろう。
知っていることを活用できないなら、なんのための能力だ。

せめて見えるのが未来だけだったらいいのに、と思う。
きっと未来と過去が同列に見えるから、余計な混乱をするんだ。
未来を見ることが良いとも言い切れないけど、人の過去を知ることにはタブーが多いから、足が竦む。
見える条件は違うけど、それが私には同じような光景として見えてしまう。

なんの解決にもならないとわかっていながら、神様を運命を恨んでみる。
そうせずにはいられないほど、状況は酷い。
動けないからこそ、思考だけがぐるぐると巡った。
何を考えても絶望に突き当たってしまう。
でも、行き止まりでも、状況をリセットすることはできないんだよ。


負の要素に胸を押しつぶされそうになりながら、どれくらいそうしていただろうか。
目が暗闇に慣れるように、状況に免疫がついたらしくて、吐き気がマシになってきた。
落ち着くために深呼吸を繰り返し、それでようやく静かな部屋を見回した。
六道骸という諸悪の根源がなくなったせいか、部屋はかなり広く感じられる。

彼が座っていたソファの足元あたりに、私の鞄が置いてあった。
もちろん、足を伸ばしても到底届かない。
あの中には教科書、ノート、筆箱、携帯電話、スタンガンに催涙スプレー……。
手元になければとうしようもない。
痛いのを堪えて手の拘束をいじってみたけど、びくともしない。

今の私にできることはなんだろう?

たとえば、見ることが出来るのはこの部屋の過去くらいだ。
見たとしてもわかることはどれだけあるだろうか。
これから先、六道骸と何か駆け引きをするにしても、やっぱり少しでも情報は必要だ。
せっかく本人に触れる機会があったのに、『恐ろしい』ってことしかわからなかった。
不運にも意に反するものを見てしまったから、私に不都合なことだけ見つかった。
けれど、探せばどこかに好都合があるかもしれない。
まるで宝くじでも当てようとするような、かすかで頼りない望みだけど、
その一縷を手に入れるために、未知の暗闇を探る勇気があるだろうか。

無理に足掻いたって何も変わらないよって、思う私もいる。
さっきみたいに災いが起こるだけだよ、って。
あんな、人知を超えた恐ろしさに立ち向かえるわけないよ、って。
いったん臆病になったら立ち上がれないのも、私は相変わらずだ。
目をきつく瞑って、耳を塞いで、座り込んで、誰かが立たせてくれるのを待っている。

それで何か状況が変わるならいいのにね。
このままで良いわけがないんだ。
『やらないで後悔する』ほうを選んだら、私は永遠に変われない。
その決意はきっと誰かがくれたものだった。

怖いものは、怖い。
目隠しを外して見える、世界の真実は恐ろしいばかりだから。
さっき六道骸の過去を見てから、力を使うのがもう怖くてたまらない。
もっと恐ろしいものが見えてしまうんじゃないか、とか、思ってしまう。
私の精神力はすべてを受け入れられるほど強くない。
あれは一介の中学生が見ていい光景じゃなかったのだ。まず間違いなく心が蝕まれる。

それでも、逆にいえば、被害はそれだけなのだ。
私がどれだけ絶望しても、現実にこれ以上状況が悪化するわけではない。
ひとりに残された部屋の沈黙が、私に必要を迫っているように思えた。
私の覚悟を待っているように思えたのだ。その勇気があるだろうか。

怪我といえる怪我をしていない私に対して、風紀委員は、生徒は、沢田君たちは――
そして恭弥は、大怪我しているはずなのだ。
しかも病院で手当てを受けたわけじゃなくて、今もこの廃墟のどこかにいる。
まずはどうにかして合流しないと。

それは心配だから、というのが一番の理由じゃない。
私が心細いから。さみしいから、会いたいのだ。
もう二度と会えなかったらどうしよう、と思う。そんなことはありえないと、否定できない。
闇に打ち勝つために、恭弥、恭弥、恭弥、きょうや、きょうや と、心の中で何度も呪文を唱える。
怖いとき、不安なとき、いとしい人に会いたいと思って何が悪いの。
そのためにはどうすればいいの。

考えに考えていたそのとき、なぜだか幼い記憶が脳裏に瞬いた。


 ――『本当? パパって小学生のときは何日かの過去しか見えなかったの?』


これは、いつだっけ? 小学校低学年くらい?
どうして今思い出したんだろう。
ああ、でも興味深い話だ。
私は物心ついたときからずっと無限の過去を見えることが当たり前だったから。

そして、その続きは?
うろ覚えだ。自分の過去は見られないんだから、思い出すしかない。
思い出せ、思い出せ……。

『そうだよ』とパパが答えるのは想像できる。
きっと大きな手を幼い私の頭に載せた。
すると『どうして?』と無垢に問う私。

 ――『必死で強く強く願ったら、力まで強くなってしまったんだ』

私は、《見たい》と願うことがまったく理解できなくて、
二、三日の過去を見る力が無限になってしまったことが不幸としか思えなかった。
子供だから、『そんなの嫌だな』と口に出してしまう。
パパはあたたかく微笑んだ。

 ――『かえでにもいつか、誰かのことを守りたいと心から願うときが来るかもしれないね』

うん、それはきっと今だ。
今、願いたい。叶う奇跡があるなら、一縷の望みに賭けられる。
両手を、繋がれていた柱に押し当てた。


見据えた部屋の中央に現れる、満開の桜と傷だらけの恭弥と六道骸。
思わず名前を叫ぶ。口から迸った声は悲鳴に似ていた。
別れ際に見た『未来』に間違いはない。
満開の桜が突然現れたのがどんな手品かはわからない。
とにかくその鮮明で凄惨な光景は目を逸らしたくなるようなものだった。

けれど立ち上がり、ゆっくりと二人に近づく。
過去の映像の中において、私を縛り付けるものはない。

傷だらけの恭弥は見ていられなくて、その顔が歪められるたびに目を瞑りたくなった。
またヒステリックに悲鳴を上げて手を伸ばしたくもなった。
恭弥はほとんど無抵抗だ。同時に無言でもある。
それでも手を止めない六道骸を「やめなさいよ」と叩こうとしても、その手はただただ空間をすり抜ける。

此処は過去であって、私はそれを見ているだけに過ぎないのだ。干渉する力はない。
二人はこんなにも目の前にいる私を視界に入れることはない。
二人には私がどんなに声を張り上げて、何を言ったってわからない。
二人のどちらに手を伸ばしても、空を切り、幻だと思い知らされるだけだ。
まるで、孤独の象徴だった。大切な人が目の前で傷ついているのに何もできない。
それどころか守られることになったのだ。もうすぐ『私』が運ばれてくるんだろうか。
やるせなさに膝を折りたくなった。


そのとき、部屋の入り口に目が行った。
柱に拘束されていれば果てしなく遠く感じる出口だが、立って歩けば数歩でたどり着く。
歩いて――どこまで行けるのだろうか。そんな疑問が浮かんだ。

私は、人や物に触れてその人の過去を見る。
触れることはできないけれど、見える範囲であたりを動き回ることは出来る。
でも、それはあくまでもその『人』や『物』の過去であるはずだ。
今はこの部屋の柱に触れているのだから、見えるのは柱から見渡せるこの部屋の過去だけ――
――だと思い込んでいた。本当にそうだろうか?

研究されつくした能力というわけではない。
経験と感覚ですべてをまかなってきたからその定義は曖昧だ。
考えてみれば本質的に世界の時間の流れは一つで、過去も一つしかない。
極端な話、万物の過去とは共通のものだ。

過去の中だけでも、部屋の外を見て来られる?


正直、この光景に背を向けることは躊躇われた。
恭弥の苦しみから逃げたくない。けれど、ここにいても出来ることはない。
だから痛いほど唇を噛んで、覚悟と願いを胸に、駆け出した。

出口から希望の光が私を手招いているように思えた。


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