54.

知ろうとしたことは、この状況を打開するための手ごろな真実だ。
わけのわからない状況で、情報収集は基本だと思った。
人の過去を覗くことには普段から抵抗があるけれど、
『この犯人のプライバシーなんて考慮してあげない』と、それは敵意で悪意に近かった。
忌み嫌っていたはずの最低な手段しか武器にならない自分が嫌だ。
それでも、優先順位を考えれば、
恭弥がどこにいて、どうしているのか知りたかったし、
敵のことも知っておけば弱みや付け入る隙が見つかるかもしれないと希望にすがった。

その過去が私の手に負えないものだという可能性を想像できたはずなのに、
他人の過去を自分の思い通りに利用しようだなんて傲慢だった。
欲しい情報だけを検索して得られるわけじゃないのだ、自分から他人の業(ごう)に分け入っていくってことなのだ。
想像を超えた闇の存在を知る。安易に触れたことを激しく後悔することになった。

彼が私に触れたとき、最初、何も見えなかった。
たぶんひたすらに暗闇が広がっているだけだったからそんな錯覚をした。
そこで引き返すべきだったのに、目を凝らしてしまった。

知るべきはほんの数時間、せいぜい数日間のことだったのに、
闇が、常軌を逸した引力が、私を、彼の過去の中でもとりわけ暗黒の場所に引き込んだ。
まるで谷底に突き落とされるように、足元から絡み取られた。
暗闇に迷い込んだ。一面が闇色に染まって、自分の指先さえ見えなかった。
夜の闇のように穏やかなものではない。たんなる漆黒ではない。
形容できない幾億もの色が混ざり合って織り成す、混沌だ。
永遠に広がっているのかと思えたが、その空間の奥で蠢くものがあった。
目が慣れてきたころ、その全容がわかる。色がわかる。音が聞こえる。
どうして見えなかったんだろう、わからなかったんだろう。どうして聞こえなかったんだろう。
鈍っていたのは、きっとそれが人の身で体感してはいけない次元の存在だったからだ。
麻痺していた五感が動き始めて、鮮明になる。

それは阿鼻叫喚の地獄。
比喩ではない。――本物の、あの世。

 灼熱の業火の海が人を焼く。熱によって空気が揺らめく。爛れて崩れる肉塊。
 四方八方から響く、悲鳴が、呻き声が、断末魔の苦しみが耳を劈く。
 身体を切り裂かれ、粉砕され、息絶えた『それら』は、
 涼風が吹くと、元の身体に戻り、等しく責め苦が繰り返される。虚空を掴む、叫び喚くのエンドレス。

あまりのおぞましい光景に、うわずるように悲鳴を上げた。
無数の眼球のない節穴が私を見ているような錯覚に陥った。
救いを求めるように、手を伸ばされているような、錯覚。

どんな悪夢よりも凄惨な映像だった。
毛骨悚然たる思いで耳を塞いだ。それ以上は体が竦んで動かなくなった。
目を閉じれば楽だったのかもしれないけれど、わからなくて。
――どうして『彼』の過去を見ようとして、こんなものが見えるのか。

そのとき、目の前をひとりの少年が歩んでいった。
年は小学生くらいの、三叉槍を手に持った、裸足で、襤褸を纏った黒髪の少年。『彼』だった。
人が人の姿を保っていない、異形の溢れる空間で、ひとり、人として歩んでいた。
温度がわからなくても、見るからに熱そうな空間に、ひとり、立っていた。

私は思わずそんな彼を見つめた。
人でない人々が嫉ましそうに彼を引き込もうと手を伸ばす。彼はそれを切り裂いて、振り払う。
彼は凄惨な光景を前にして、すべてを見下してから、狂ったようにせせら笑った。
その瞳に宿る血のように赤い光に背筋が凍った。
耳が覚えているよりも少し高めの声で、あの独特の笑い方を披露して、また地獄を歩んでいく。
追いかけていこうとは思えなかった。

怖い。これは何。人の世であるはずがない。
私は、自分の目で見たものは信じる主義だけれど、地獄という、その存在まで認めろというの?
どうしてこんなものが見えるの、どうして彼はこんなところにいるの、いたの。立っていられるの。

彼が闇の奥に消え、いなくなって、私は再び周囲を感知してしまって、悲鳴を上げた。
あらためて己の立っている場所を知覚して、激しい吐き気がこみ上げてくる。
進まない、進めないってことは、このおぞましい場所に取り残されるってことだ。
こんな、場所に。 ――闇は刹那を永遠を感じさせた。


「どうかしましたか?」


視界がぐるりと一回転したような感覚をともなって、気づけばもとの廃墟だった。
彼が目の前にいて、私から手を離したところだったらしい。
私は彼の顔を見て思わず小さく悲鳴を上げて、腰を抜かしそうになりながら後退った。

現実に戻って、いっそうさっきの映像が脳裏をぐるぐると渦巻く。
目蓋の裏に焼きついて離れるわけがなかった。
吐き気がする。怖い。おぞましい。背筋が寒い。鳥肌がとまらない。
トラウマだ。こんな悪夢、絶対トラウマになった。心が折れそうだ。
理解したことは、『彼』が人という枠組みを越えた恐ろしいモノだということだ。

「近づかないで!」
「失礼な人ですね。突然なんだというんです?」
「――あ、あなたは、何?」

なぜ、なんで、どうして、あんな光景があるの。こんな人がいるの。
殺人現場を見たことがある。事故現場を見たことがある。それがこの世の悲劇の全てだと思っていた。
それでさえもどれだけ怖かったことか。

行き交う人の誰もが目隠しをしている国があるとしよう。
誰も、誰かがどこに行くのか知らない。
誰も、誰かがどこから来たのか知らない。

たとえば、今追い越した人が、明日車に轢かれて死んでしまうかもしれない。
たとえば、今すれ違った人が、昨日親友をその手に殺めてきたかもしれない。
街には無数の運命の糸が絡み合っていて、それなのに誰もが知らん顔で去っていく。
気づかなければどんなにいいだろう。残酷な真実は目隠しが隠してくれる。それが『普通』。
無知でありたい、平穏でありたいのに、
私の目隠しは欠陥品で、人にぶつかればその人の行方が見えてしまうことがあるし、
意識して目を瞑らなければあらゆる人の軌跡が見えてしまう。
知ってしまった事実は否定できない。逃れられない。
目の前に殺人鬼がいて、明日死ぬ人がいて、どうして平然としていられよう。

ましてや地獄で、あのおぞましい映像に立っていた少年をどうして恐れずにいられよう。

「また、おかしな質問をしますね。何に見えるんですか?」
「私には人だと思えない。……だって、あなたは人の概念を越えている」
「何を根拠に」

彼は鼻で笑ったけれど、それは自嘲の笑みも含んでいたように思う。
あんなに幼い年で、あんなに恐ろしい場所にいて、彼は。
彼は、思い出したように微笑んだ。

「そういえば自己紹介をしていませんでしたか。僕は六道骸といいます。君は?」

六道、骸。彼にぴったりな名前だ。自称だろうか。
地獄は六道の最下層だし、骸は屍のことだ。
こんなにも禍々しくて恐ろしい名前を私は他に知らない。

「君の名前を聞いているんですよ」
「……内藤、かえで」

答えると、骸は満足げに目を細めて、口角を吊り上げた。

「では内藤かえで。そう言う君は何者ですか?」
「一般人ですけど」
「並盛最強と恐れられる風紀委員長の恋人で、自身も風紀委員。
ボンゴレの知り合いであって、ときどき妙なことを口走る、君は何者ですか?」

ひとつひとつ自分の情報を並べられて、歯噛みした。
こうやって追い詰められていくのね。逃げられないと察するからこそ、逃げ出したい。
全身で拒絶を表明するけれど、手首が縛られているせいで一定以上の距離を置けない。
近づいてくる彼を蹴りとばしてでも距離を保ちたいのに、触れられないから、最大限に身を離すしかできない。

「マフィアとかとは関係がないことだけは確か」
「……いいでしょう、質問の趣旨を戻します。
僕は君をボンゴレへの人質にもしようと考えているんですが、どうでしょう?」
「人質? なんで私が」
「知り合いなんでしょう」
「たいした知り合いじゃない、ってば」
「では、どんな知り合いなんですか」

彼の質問は全てそこに帰結する。
ああ、なんかもう、これは適当に言ってしまったほうが楽だ。
いつ彼が紳士的な態度を崩すかわからないのに、無力な私がどうして歯向かえるというのだ。
すべての主導権は彼にある。彼がもう一度私に触れようとしたら、私はどうやって逃れればいいのだ。
怖かった。過去のあの光景を見てしまったから、平然とはしていられない。

「去年のクラスメートに、あだ名で十代目って呼ばれている男子がいたの。
マフィアとかボンゴレとか、言っていたような気がする。……それだけ」
「それは誰ですか?」

当然の追及だったはずなのに、私はやはり答えることを躊躇った。
すると、「誰ですか」ともう一度問われる。
小さい子を看るように目を合わせられたことが屈辱的であり、その瞳を見るとやはり恐ろしかった。

「沢田、くん」

呟くように答えると、「フルネームは?」と聞き返される。
しかたなく、『沢田綱吉』と告げた。骸はどこからか取り出した白い紙に目を通す。

「リストにはありませんね。同級生ということですが、君は何年です?」
「二年よ。……そのリスト、何?」
「『並盛中ケンカの強さランキング』と言いましてね。見たいですか」

素直に見たいです見せてくださいというのは癪だったのだけれど、
見たいのは本当だったので渋々頷いた。

そして真っ先に目に入った文字に息を呑んだ。
『雲雀恭弥』、『山本武』、『獄寺隼人』、『草壁哲男』、『笹川了平』……。
それから、知っている名前がたくさん並んでいた。
喧嘩ランキングというなら、たしかに恭弥が一位っていうのには納得できる。
山本君が二位っていうのは少し意外だけれど。
そんなことよりも、下位のほうは特に、今回の事件の被害者と一致するとすぐにわかった。
つまり、次のターゲットは副委員長、獄寺君、山本君……。
何も出来ない自分が悔しかった。

「知っている名前はありましたか?」

私がそのリストを凝視しているのを見て、彼はゆったりと尋ねた。
そうだね、それを聞くことが目的だったんだもんね。
答えずにいると、彼はやはり質問を重ねた。

「十代目と呼ばれる人物がいるなら、呼んでいる人物がいるでしょう? それは誰ですか」

ああ、もう。 そうだね、たしかにそうだ。
できるだけ自分と無関係なところを強調しようとした結果、他の人を引き合いに出すことになってしまった。
私は獄寺君のことが苦手だけど、好き好んで売り飛ばしたいわけじゃないのに。
六道骸の青と赤の双眸が煌き、逃れられないのだと告げる。

「獄寺隼人、くん」
「クフフフ……、クハハハハハ!!」

彼は、楽しそうに楽しそうに笑った。
私が見上げると、「ちょうど今ごろ三位狩りの最中のはずです」と言ってのけた。手土産が待ち遠しい、とも。
……今度は、獄寺君が怪我をするのか、と、ぼんやり思った。
それともあの強気な態度で、物騒な爆弾でどうにかしてくれるだろうか。彼らの狙いはあなたたちなのだから。
敵は強大だけれど、恭弥も囚われてしまったけれど、ね。ゆっくり目の前が暗くなっていくような絶望を感じた。

「なぜ、こんなことをするの」
「言いませんでしたか? 僕はマフィアが憎いんです」
「マフィアが……」

彼の因果とマフィアとの関連は私にはわからない。もう知ろうとも思わない。
ただ、文字通りの地獄を見てきた彼が『憎い』とまでいうマフィアには、それ相応の原因があるんだろうと思う。
だからって私は関係ない、恭弥も関係ない、並中は関係ないのに!

「では、僕はいったん別の部屋で報告を待ちます。
君にはしばらくこのままでいてもらうことになりますが、自分の身を救う手段でも考えておいてください」

見逃してもらうために言いなりになって働けとか、有益な情報を売れとか、そういうふうに聞こえた。
絶望だけが取り残された。


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