52.

たった一瞬見えただけの映像が、鮮明に脳裏に焼きついて離れない。
それどころか、あらためて思い出すたびに、詳細になる。
映像というよりもむしろ写真に近い。

まず最初に目を奪われたのは、満開に咲いた桜だった。
今の季節にはお目にかかれないというせいかもしれない。
けれど、よく思い出せば、薄暗い部屋の、その桜の下で、恭弥が傷だらけで膝を折っているようなのだ。
傍らに立っているのは黒曜中の生徒のようだった。

認識が遅れたのは、無意識に信じたくないと思ったからだろう。
認識できたとき、まずは何の冗談だろうと思った。
だって恭弥は自分の髪の一本だって傷つけることなど許さないような人じゃないか。
映像が見えたときに、瞬間的に感じたざわめきの正体はこれだったのだ。

ああそういえば、四月に、恭弥は桜を厭うようなことを言っていた。
私はそのとき、それが不思議で仕方なかった。
だって桜の狂わしいまでの美しさは恭弥の好むところのような気がしたから。
そして今になって納得する。
こんなふうに綺麗に桜が咲いていたら、嫌いにもなるわ。
恭弥が桜を嫌う原因はこの出来事にあったんだわ、と。

私はこの出来事が過去だと頭から決め付けていた。
未来という可能性がないわけではなかったけど、私に見える未来はせいぜい一週間先だ。
残暑も身を隠しつつあるこの季節に、『桜』だなんて、絶対に連想できなかった。
見えるものから時期を判断するのはすでに癖になっていた。


黒曜中とも因縁があっただなんて初めて知った。
じゃあ今日はその報復ということにもなるんだろうか。
恭弥のことだから、この出来事のあとに既に報復をすませていそうだけど。
それにしても、この命知らずで恐ろしい少年は一体誰だ。

腑に落ちない点がいくつもあった。
第一に、恭弥が負けたことがあるなんて、笑い飛ばしたいほどの事象だ。
過去の話、過去の話と自分に言い聞かせるけれど、
黒曜中との確執があったなんて話は聞いたことがない。
そもそもこれはいつの話だ。
季節さえ合えば、あまりにも現在に状況が酷似してはいないか。


恭弥を見送ってから、ひとりで悶々とそんなことを悩んだ。
後の祭りと言われてしまえばそれまでだ。

すぐに聞けばよかったのかもしれない。
けれど、そのときすぐには矛盾や重要性に気づけなかった。
状況が緊迫している今、『過去の話』をしている場合じゃないとも思えたし、
聞けなかった。

未来に起こることを口に出すのは、困難を避けられる可能性があるからだ。
どう受け止められようとも、罵倒されようとも、その人のためになる。だから価値があるのだ。
けれど、過去に起こったことに口を出すのは、ただの余計な詮索にすぎない。
土足で踏み込んでならないというのが、私の中にある大切な決まり事の一つだった。
いくら見てもかまわないと言われていたって、口出しすることは違う。
しかも、恭弥にとって屈辱的だと思われる過去ならなおさら、私が触れないほうがいいと反射的に思ったのだ。
恭弥に嫌われたくないと思うからこそ、「こんな過去があったんですか」なんて聞けなかった。


幾度この種類の後悔を繰り返しても、やっぱり変われない点というのが人にはあって、
取り返しがつかなくなってから、動けばよかったと思うのに、その瞬間は足が竦んでしまう。
『後』から『悔』いるからこそ後悔なんだと思ってしまう。


恭弥に近くのコンビニまで送ってもらって、そこでタクシーを待っていた。
道でぶらぶらしているよりは、どこかの店内にいたほうがまだ安全だろうと思えたのだ。
店員さんは男の人が三人。私は防犯グッズも持っている。少しの間だ。
そもそも、並盛中の女子の旧制服を認識できる人が黒曜の区域にいるとは思えない。
風紀の誰かと一緒に居なければ、むしろ一般生徒よりも安全かもしれないくらいだ。
不安だから一緒にいてほしいなんて、どんな我侭だ。
恭弥は私個人の安全よりももっと大きな使命があり、そのためにここまできたのだ。
私も事件の解決をなによりも望んでいた。

恭弥を見送ってから、タクシーを呼ぶために開いたケータイを見て、着信履歴に気づく。
見れば、知らない番号だったけれど、今はいろんな可能性がある。
風紀からかもしれない。緊急事態かもしれない。
そこで、折り返して電話をかけた。短いコールで繋がった。

「俺だぞ」
「……リボーン?」

齢一歳の赤ん坊が何の用だ。
この番号は山本君に聞いたんだろうか。いつのまに。
追及するまもなく、リボーンは用件を述べた。

「ヒバリが敵アジトに乗り込んでいったっていうのはホントか?」
「本当だよ」

だったら何、と切り捨ててしまいたくなるのを堪えた。
どうやら私は心底この子供が苦手で嫌いらしい。
得体の知れない危機感を覚えるからだろうか。
電話だからなおさら口調が刺々しくなるのかもしれない。

「お前、アジトの場所を知らねーか」
「どうしてそんなこと聞くの」
「気になることがあるんだぞ」
「気になること?」

聞き返したが、沈黙で返された。
むしろ黙秘で、どうやら教える気がないらしい。
そのことにむっとするが、年上の意地で堪える。

「アジトっていうか、犯人がいるのは黒曜ヘルシーランドってとこで間違いないと思う。
旧国道のあたりに黒曜中の生徒がうろうろしていて、他にめぼしい建物も見当たらないし。
ついさっき恭弥先輩が乗り込んでいったよ」
「おめーも近くにいるのか?」
「安全な場所で待機だよ。今からタクシーで学校に帰るところ」

リボーンは考え込むように黙った。
どうして私がここまで付いてきたのかとか、疑問はあるだろうけど、
むこうが教えないことがあるのなら私にも教える義務はない。
そろそろ切ろうか……と思ったとき、ふいにあの映像が再三、脳裏を掠めた。
不安に胸を掴まれて、その不安を少しでも薄めたかった。

「ねえ、桜が咲くのは四月だよね?」

大した意味はなかった。誰かに何かを話して、まさかの可能性を否定して、すっきりしたかったのだ。
どんなふうに探ればいいのかわからなくて、そんな当たり前のことを口走った。
だが、リボーンは思いのほか鋭く反応した。

「桜がどうかしたのか」
「べつに。ただ少し……」

そういえば、リボーンには私の能力は『未来が見える』ことしか説明していない。
恭弥の過去を見て、それが気になるだなんて説明のしようがなかった。

「桜が咲いてるのか、敵のアジトに」
「や、そうじゃなくて」

違う?
ほんとうにそうだろうか。

ふいに、そんな考えが芽生えた。
何かが繋がった。固定概念を根拠に、ずっと否定し続けていた何かが。


  あれは、未来だったのではないの?


「……そう、かもしれない」
「そいつはまずいな」
「なにがまずいの!?」

食らいつくように問いただした。
あの映像の通りの未来がこれから訪れるなんてこと、考えたくない。
ない、と信じたかった。だって、恭弥はもう行ってしまった。

「ヒバリは桜クラ病にかかってるからな」

頭が真っ白になった。なにそれ、と問うことも忘れて、言葉を失った。
ニュアンスで事態の悪さは感じ取ったから、それ以上聞きたくないくらいだった。

「切るね」

リボーンとの通話を切って、私はすぐさま恭弥に電話をかけた。
つながれ、繋がれと祈ったのだけど、繋がったのは留守電サービスだった。
今まで戦場に出向いている恭弥に繋がったことなんて数えるほどもなかった。

私は正気ではいられない。
もう建物の中に入ってしまったんだろうか。
たまらずに、外に飛び出した。

恭弥の向かった方向に駆け出そうとして、駐車場までで足を止められた。
今から行って、恭弥の元に辿り付こうとすることがどんなに危険か、わかってる。
けれど時は一刻を争うのだ。理性と感情が拮抗する。私になにができる?
このままじゃ恭弥が! 私のせいで恭弥が!

脳裏に焼きついた狂い桜が不吉の象徴に思えて、私も桜を嫌いになりそうだった。


余裕のない状態だったから、後ろから忍び寄ってくる影に気づかなかった。
突然、腕を引かれて、背後から羽交い絞めにされ、掌で口を塞がれた。

「アンタが『並中のヒバリ』の女?」

そう聞かれた途端、抵抗して手を噛み、思いっきり足を踏んだけれど、
腕は多少緩んでも離れるわけでもなく、「おとなしくしろ」と脅すように別の男が正面に立った。
背丈があって体つきも良い、黒曜中の不良だった。三人もいる。
囲まれて、押さえつけられて、せっかく習った護身術をどれも適用できそうにない。
あるいは瞬時に冷静に対応できていたら少しは違ったんだろうか。
こんな事態はいつでも予測していたはずなのに。
両手が不自由で、スタンガンと催涙スプレーを取り出すこともできない。
せめて大声を出そうとしたけれど、それさえも防がれてしまう。なんて無力なんだ。

「ここまで来て帰るなんてことしねーよな?」
「オレら、個人的にヒバリに恨みがあるんだ」
「ムクロ様のところに連れていこうぜ」

触れていたので、当然のことながら、私は彼らの過去を見ていた。
ムクロ様と呼ばれ畏怖の対象になっているのは、桜の映像の中で立っていた、あの少年だった。
悪い予感は全て的中した。絶望の淵に落とされた気分だった。最悪な状況下だ。

「連れていくだけだ、おとなしくしてればとりあえず乱暴はしねーよ」
「手っ取り早く気絶してもらうんだけどな」

楽しそうな男の一人が、私の首に手をかけた。
意識が次第に白く染まった。


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