51.

心配させないようにと思って里奈子ちゃんに遅刻するという連絡を入れたけれど、
一般生徒が次々と被害に遭っているせいで、今日は登校する生徒のほうが少ないだろうとのことだった。
かくいう里奈子ちゃんも、知り合いのお見舞いのために病院を訪れているそうだ。

ケータイを閉じて、恭弥が来るまでのあいだ、私は塀に触れて、
犯人が現れて事件現場から去っていくまでをじっと『見て』いた。
少しでも情報を手に入れるためだ。

できるだけ暴力シーンは見ないようにしたかったけど、都合よくはいかない。
血と呻き声は、見ていて痛々しかった。
笹川先輩もたしかボクシング部のキャプテンで、大会でも功績を収めているはずなのに、
犯人はもっと強かった。恐ろしかった。その動きは、人間のものではなかった。
今まであったどんな事件とも違うことを悟る。
金髪で、前髪をピンで留めていて、顔に傷がある、黒曜中生の犯人の男の子。怖い……。

足が震えるようだった。血の気が引いていく。怖気が走った。
地面にしゃがみこんで耳を塞ぎたいとさえ思ったのに、
私の中の風紀としての使命感や義務感がそれを許さなかった。
目を逸らしたいのに、逸らさないようにするから、瞳孔が開いていくような感じがした。

風紀の二人が不審そうに心配そうに私を見るけれど、気づかないふりをした。
早く恭弥が来てくれないかなあ、と何度願ったかわからない。
どうか、今そばにいてほしい。


「かえで」


待ちわびていた声は、凛と響いた。
振り返って、その黒が視界に入って、私は泣きそうになった。

「君たちはもう行っていいよ。警備に合流して」

現場にやってくるなり、恭弥はまず風紀の二人にそう命じた。
指示を受けてからの二人はすぐに行動したが、現場に残る私を不思議に見ていた。
二人の姿が消えてから、恭弥は口を開いた。

「大丈夫? 顔が青いけど」
「……だいじょうぶです」
「敬語」

こんなときなのに、そんな些細なことを指摘されて、きょとんと目を丸めた。
そういえば、周囲の人影は面倒ごとを避けるように引いていた。
ここには私と恭弥のふたりきりだ。思わず安堵の微笑みを零した。

「だいじょうぶ。報告は歩きながらでもいい? 早く行かなきゃ。また被害者が出たら……」

これ以上恐ろしいことが起こるのは嫌だ。
まだ女子が襲われたという報告は来ていないが、保証はできない。
里奈子ちゃんや、クラスメートの顔が次々と脳裏に浮かぶ。
犯人の帰り道を辿れば、その活動拠点に行き着けるはずだ。
恭弥が頷いたので、私たちは歩き出した。

「それで?」

恭弥の質問に、情報を整理しながら報告をした。

「犯人は中学生、それも黒曜中の生徒で、口ぶりから言って、単独犯じゃないと思う」
「黒曜中、ね。生徒会長が代わったって噂は聞いたけど」

黒曜中は隣町、つまりナオの地元の中学だ。
ナオが中学受験しなかったら行っていたはずの学校ということになる。
偏差値は低めで、治安は悪いと噂に聞く。
けれどこの事件の犯人を単なる『不良』と片付けていいのかは悩むところだ。

曲がり角で犯人が見えなくなるまで、姿を目で追う。
見ず知らずの誰かの動向を監視するということに罪悪感はなかった。
冷徹な目で私は犯人を道しるべとして見つめていた。
もう、閉じこもっていればいつか解決される、じゃ駄目なんだ。

「そこの角を、右に曲がって」

登校するつもりだったから、鞄の中身はいつもどおり重いし、
過去を見るために住宅の塀に触れながら進むから、乗り物に乗るわけにもいかない。
それでも私は出来るだけ急いだ。
足早になりながら、見えたことを一部始終恭弥に報告した。
恭弥は短く相槌を打つだけで、ぴりぴりとした空気が伝わってくるようだった。
言うことがなくなると、私たちは黙々と進んだ。

犯人は、途中ふらふらとコンビニに寄っていたりしたけど、そういうところは案内をショートカットした。
店から出てくる過去を探し直して、追いなおすのだ。
それでも、おおむね一直線に本拠地に向かっているようだった。

一時間以上歩いただろうか、旧国道にさしかかったころに、
『この先 黒曜ヘルシーランド』と書かれた古びた看板を見つけた。
ところどころが錆びており、はげたペンキで大きな矢印が描かれている。
その先に古びた建物が見えた。旧国道には他に目立った建物はない。
此処で間違いがないとアタリをつける。
前方にちらほらと黒曜中の制服が歩いていた。

「君はこのあたりで帰ったほうがいい」

恭弥が立ち止まって私に告げた。
これ以上進むことが危険というのはわかるから、諒とした。
でも、頷いたくせに、簡単に別れを告げることができずに、どこか躊躇っていた。
私にできるのはここまでだってわかる。でも、口が動いてくれなかったんだ。
恭弥は宥めるように言った。

「タクシーを呼んであげる」
「……自分で呼べます」
「そう? それならいいや」

ああ、なんでこんなときに素直になれないのかな。
理由のない不安が胸の奥を掴む。何かがざわめいている。
今まで何度も何度も恭弥の背中を見送ってきた。
引き止めることは不可能だとわかっていた。
引き止める必要なんてないとわかっていた。そこが私の場所。
それなのに。

「恭弥」
「何?」

私は答えられない。引き止める用件が思い浮かばない。恭弥を困らせるだけだ。
すると、むっとした表情のまま、恭弥の手が子供にするみたいに私の頭を撫でた。
懐かしいほどのあたたかさが心地良いと思ったそのとき、

視界一面に満開の桜の花が飛び込んだ。

一瞬のことだった。
狂わしいほどに禍々しいほどに美しい光景が、
フラッシュバックのようにたった一度瞬いて消えた。

今は九月、桜の時期とはおよそ半年もかけ離れている。
だから当然『過去』の映像だと思うべきだった。
けれど、何故だか不安は急速に増幅した。

見たことのない過去だった。同じ過去は一度しか見ないものだから当然でもあった。
あまりにも抽象的な情報だった。
私は恭弥の過去を勝手に見ることを許されているけれど、口を出すことが許されているわけじゃない。
誰にだってそんな権利はない。だから、恭弥の過去を掘り返すような真似は控えてきた。
だから、確証や必要がない以上、見えたものの話なんて言えなかったんだ。

抉られるような不安は気のせいだと信じた。


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