47.君に捧げる一つの真実

八月の半ば。

「いい?かえで、腕を掴まれたら、こうやって外すの。
相手の親指の方に捻るか、勢いよく振り上げて」
「こう?」
「そう。立っているときは相手の顎が胸あたりを見て、全体の動きを見るように心掛けるのよ。
利き手と逆の……かえでなら左足を一歩前に出しておくのがいいわ。
あとは実践ね。肘打ちにしても、相手の弱い部分を狙うこと!
投げ技はすぐには無理だろうから、また今度よ。
慣れないうちに無理に掴みかかろうとするのは危ないから」
「うん、よろしく」
「それにしても急に護身術なんて、どうしたの?」

エリちゃんの当然の疑問に、私は苦笑した。
さんざん何も聞かずに快く教えてくれた後だった。

花火の日、危険な目に遭ったことを覚えていた。
余計なことに首を突っ込んだことが悪かったといえばそれまでなのだけど、
今の私の人間関係を思うと、これからもそういうことがあるかも知れない。

強く足首を掴まれた感覚。腕を掴まれそうにもなった。
あのときは避けられたけど、それは既に相手が弱って動きが鈍っていたからでもある。
もう一度同じことがあったらどうしよう。
腕を掴まれたら、たとえば催涙スプレーもスタンガンも取り出せなかったのだ。
道具があっても、私自身が対策できなければ仕方ない。
護身術の本はあるけれど、知識として頭に入れるだけじゃ心配になった。
それで、そういうことに詳しそうなエリちゃんを頼ることにしたのだ。

「どうしたってわけじゃないんだけど、覚えておいた方がいいかと思って」
「……そうね。世の中いろいろと物騒だものね」

言い訳をしたら納得してくれて助かった。
嘘をついたわけじゃない。心配させてしまうこともない。

「それにしても、日曜日なのにナオは部活? 夏休みじゃないの?」
「そうよ。毎日あるの。お弁当作るのも大変」
「サッカー頑張ってるんだね。ナオが中学になってからは、いつ来てもいないし」
「ええ、明日も試合があって……。そうだ、一緒に応援に行かない?」
「私が? うん、暇だからいいけど」
「あの子もきっと喜ぶわ」

嬉しそうにするエリちゃんに首をかしげる。
ナオは、たとえば学校行事に親が来て喜ぶタイプではない。鬱陶しがるタイプだ。
それが本心でなく単なるポーズだとしても、かっこつけなので、
特に人目のあることろだと過剰にエリちゃんを追い払う仕草をしたりする。
お母さんなのに呼び捨てにするしね。
そんな態度だからたまにエリちゃんにお仕置きされている。
とにかく、試合に余計な応援が増えて喜ぶとは思えなかった。
嫌がらせで行ってあげるのも面白いけど。

「そうかな?」
「そうよ。最近顔が見れなくて寂しがってたの」
「大袈裟だよー」

ああ、でも最近顔を見ていないことはたしかだ。
私もそれなりに忙しかったし、それ以上にナオが忙しいみたいだ。
家でも練習しているみたいだし。江沢邸の駐車場は広い。
帰宅部の私には部活のことはよくわからない。
エリちゃんが、「一年生でレギュラーは凄いことなのよ」と教えた。

頑張ってるんだね。
応援してやろう、と思って頷いた。
でも、明日のことはナオには内緒で。

次の日。
この前買ってもらったばかりのワンピースを着て、
エリちゃんがナオに届ける予定だったお弁当を持って、グラウンドに来ていた。
急に用事が入ったらしいのだ。もともと、いつも試合を見に来ているわけではないらしい。
私が行くなら任せようかな、ということだ。
ちょっとした責任感が心地よくて、意気揚々とナオを探す。

グラウンドの中で、ナオはボールを追っていた。
サッカー部なのだから当然だけど、普段はあまり見ない姿だ。
インドア派の私が目にするナオと言えば、ゲームやってるか勉強してるかのどちらかだった。
それが、部活の先輩らしき人たちと鮮やかな連係プレーを繰り広げている。
というか、ナオは試合の中心にいるんじゃないだろうか。
ボールを持つ回数が多い。パスを回されている。
いつも生意気で斜に構えている印象があったから、生き生きした表情でいると知らない人みたいだった。
イトコのように育った一つ年下の幼馴染が、普通の中学生の男の子だとわかった。
女の子たちの声援も受けている。人気があるらしい。
さすが江沢君の息子、たしかに顔は格好良い部類に入るのだ。

その光景をぼーっと眺めていると、いろんなところから視線を感じて、首を傾げる。
なにかおかしなところでもあるだろうか。
制服が目立つのはわかるから、当たり障りのない私服で着たのに。
並木さんとデートするときのような服装だ。センスはそんなに悪くないはず。
ナオの学校側にも相手校側にも応援に来ている女の子たちはいて、場に合ってないというわけではないと思う。
それとも、一人でいるせいだろうか。なんだか居心地が悪いなあ。

休憩時間になると、ナオの先輩らしき人が私の視線に気づいて指差した。無遠慮な人だなあ。
ナオと目が合う。

「かえで!?」

目を丸めて叫ばれると、驚かしがいがあって嬉しい。
わざわざ来たかいがあったというものだ。
ちょっとしたサプライズという悪戯に成功して、気分よく微笑む。
ナオの知り合いと認識されたことでまた視線が集まった。
一人で注目されるのは居心地が悪くても、ナオという道連れがいれば怖いことではない。

先輩らしき人に許可を取って、ナオは私の元まで来た。
久しぶり、と笑う。
ナオがだんだん近づいてくるにつれて、私は過去の認識との変化に気づいた。

「あれ、背 伸びた?」

私の身長はもう止まりかけているから、ナオとの差があとは縮まるだけだということはわかっていた。
一年前はまだ、自分たちで自覚できる程度に差があった。
前に会ったときはどうだっただろう?
そういえば、立って並んでみたりはしなかったかもしれない。

「伸びてる。成長期真っ最中だからな。それより、どうしたんだよ?」
「エリちゃんに頼まれたの。お弁当。
それに一回くらいはサッカー見に来てもいいかと思って。今何センチ?」
「エリのヤツ……!なんにも言わなかったくせに。面白がってやがんだな。あの女!」

それはお母さんに対する言葉遣いじゃないでしょう。
お弁当を作ってくれることに感謝しなきゃダメだよ。
エリちゃんはパパほど料理が得意ではないけれど、自分が出来ることをする人なのだ。
けれどそれを指摘するよりも、気になることがあった。

「今何センチ?」
「さあ?春に測ったきりだからなー。それからだいぶ伸びたと思うし。
早くお前に追いついてやろうと思って」

お弁当を手渡すと、目線は殆ど同じ位置にあった。
ひょっとしたら抜かされてしまったかもしれない、と思う。
こんなに早いとは思わなかった。

ずっと私の方が高かったから、今更抜かされることについてプライドとかそういう問題があるけど、それだけじゃない。
私は去年の夏に、ナオと約束をしていた。

『ナオ、あなたが私より背が高くなったら、私は秘密を話す、ね』

泣きながら告げた言葉。
どうにかしなければと思いながら、すぐに変わる勇気はなくて、先延ばしにした。
未来に勇気が手に入ることを信じて。
そんな不確かな契約を、ナオは受け入れてくれた。私を信じてくれたのだ。

この一年 いろんなことがあった。
今の私には、あの時欠けていた勇気があるだろうか?
黙り込んだ私にナオが首を傾げる。
「ナオ、後ろ向いて」
「は? なんで?」
「比べるの! 約束覚えてるでしょ?」
「覚えてるけど、まだ微妙だろ。
俺は完全に抜かしたって確信を持った上で挑戦したいわけで」
「そんなの知らない。めったに会わないんだから、私にとっては重要な問題なの!」

ナオは、いざ比べてみて自分のほうが低かったら嫌だから拒否してるんだろう。
かっこつけたがりだから。
でも、ナオが良いと思うタイミングに私が良いと思うかどうかはわからない。
少なくとも、今なら大丈夫。
大切な幼馴染を壁の内側に引き込むことができるんだよ。

「……や、比べるのはいいんだぜ、かえでがいいなら。
でも靴の高さとかあるし、背中合わせたって本人たちにはよくわかんないだろ?」
「あー、うん。そうだね」
「俺の出番だな」

振り向くと、ナオの先輩らしき人が自信満々に立っていた。
ああ、格好付けって上には上があったんだね。
ナオが嫌そうな顔をする。先輩らしき人に対してのナオはやっぱり、まるで別人みたいだった。

「……アンタどっから湧いたんすか」
「お前なんでこんな可愛い彼女いるってこと俺に言わないんだよ!てっきり俺は昨日の子と……」
「あぁああ!余計なこと言わなくていいから!
コイツはただの知り合いって言うか幼馴染みたいなもんです」
「ほんと?」
「ええ、そうですよ」

私が答えると、先輩らしき人は納得したのかしてないのか、
「へえー?ふうん……」とわざとらしく声を上げていた。
名前を聞かれたので、内藤かえでです、と答える。
覚えてもらっても、もう接点はないだろう。

「それで、何の用っすか」
「背比べするんだろ?俺が測ってやる。ありがたく思え」
「盗み聞きしてたのかよ、趣味悪ぃ……」
「こんな面白いネタはないからな。ビニールシートの上なら靴脱げるだろ?ささ、かえでちゃん、こっちな」

手招きをされる。私にとっては、悪い話ではなったので、その厚意に甘えた。
それにしても親しみやすいというか馴れ馴れしいいうかお節介というか、フレンドリーな人だ。
ナオは部活で騒がしくというか騒がれて楽しくやっているのだろう。

私は靴を脱いで、ナオに背を向けた。


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