46.

お祭りの終わり。
花火の音の代わりに、遠くで人のざわめきが戻るけれど、
隣に愛しい人一人しかいないこの場所では、本来の夜の静けさ身に沁みた。
濁流のような、岐路につく人ごみを嫌うから、すぐには立ち上がらない。
繋いだ手を離されないまま、私は余韻に浸ることが出来た。

しばらくすると、「帰るよ」と声を掛けられた。本当に送ってくれるらしい。
神社から家までは、この時間に歩くには少し遠い。
だから、ちょっと申し訳なく思うけれど、だからこそ一人で帰るのは嫌だ。
並木さんを呼び出すという手もあるけれど、私を送るとか送らないとかには彼もかかわっている。
っていうか言い出したのは恭弥先輩だ。ここはありがたく甘えるしかない。幸福がある。

「恭弥先輩」

名前を呼ぶと、なぜか先輩は不機嫌な、おもしろくなさそうな顔をしていた。
どうしてだろう、と首を傾げる。

「煩わしいな」

拒絶とも取れるその言葉は、けれど穏やかだった。

「なにが煩わしいんですか?」
「敬称」
「"先輩"?」

それは、親しんでいた言葉。
雲雀先輩と呼んでいたときも、恭弥先輩と呼ぶときも、単に先輩と呼ぶときもあった。
私にとって、先輩といえば恭弥先輩だ。

「いらないよ。恭弥でいい」

そう言われて、息を飲んだ。
今更だとも思った。
けれど、そう。私とこの人の関係は単に先輩と後輩ではない。なくなった。だから――。

「きょう、や」

落ち着いてきた熱が再発して頬が熱くなった。
ひとりで密かにならば何度も唱えた名前だ。
けれど、面と向かって呼ぶのは、慣れなくて恥ずかしい。
同時にその音を口にした途端、胸に喜びが広がった。
頷かれると、さらに嬉しくなる。

「恭弥、恭弥。……うん、練習します」
「そうなると敬語も不釣合いだね。禁止」
あっさりと命令が追加される。

「敬語禁止ですか?これはもう癖みたいなもので、」

すぐには変えられない。と言おうとした。
目上の人に対しては敬語を崩せなくなっている。
優等生の特性だろうか。

「あの男には使ってなかったのに?」
「あの男?――並木さんですか?
だってあの人は、家族みたいな人だから」

パパやママと同じように、敬語を知らない子供のときからの知り合いなのだ。
年上だからって、今更敬語に切り替えるのは他人行儀すぎる。
実行したらたぶん笑われるだろう。
同じ理由で、エリちゃんにも江沢君にも会長さんにも淳也さんにも、敬語は使っていなかった。

つまり、先生とか先輩には絶対に敬語を使うのに、
一番近くにいる大人たちには敬語を使わないのだ、私は。
学校と家庭の区別。
ちゃんと敬語を使うようになったのは、中学校という知らない場所に飛び込んだあのとき。
緊張が先立っていたのだと思う。線引きすることで安心感を得ていたのではないか。

こんなところにも私の壁があった。

恭弥先輩――恭弥、と一緒にいる時間の中で、心地よさに包まれていたのだ。
壁があるということが今更だった。
自然の流れで、少しは敬語が崩れていたと思う。
けれど、堅苦しさは残っていて、今思えば不自然な距離だった。

「そうですね。――そうだね、わかった。直す、直します」
「直ってないよ」
「練習します。練習するから、待ってて。ああ……」

思い通りにならない言葉がもどかしかった。
一年以上の習慣はだてではない。
私は真面目に懸命にやっているのに。
それを哂う先輩に、少し仕返しをしたくなった。

「それじゃあ、"恭弥"も私の名前を呼んでくれ、る?」

気づいていただろうか。
私は、恭弥に、固有名詞を呼ばれたことがない。

今までなんと呼ばれていただろうかと考えると、苗字でさえ呼ばれたことがないのだ。
さすがに名前を覚えていないということはないはずだけど、恭弥は基本的に他人に興味を示さない人だ。
多くの人間が恭弥にとって、固有名詞を呼んで区別するほどの価値がないのだと思う。
すぐ隣にいたから、「ねえ」とかそんな呼びかけで事足りていたのだ。
それでもいいと思っていた。

でも、不公平はいけない。
私が変わるから、一緒に変わってくれるといい。

恭弥は面食らったような顔をしてから、一つ咳払いをした。
それから、不敵な笑みで囁いた。

「かえで」

なによりも甘美な響きを耳に宿して、
私は、これからの日々が今日の花火よりも鮮やかであることを確信した。




夜空に花が咲いて、散った。
仲間で見た花火は一生の思い出に刻む価値がある代物だった。
けれど、山本武は胸に切なさも抱えていた。
光が途切れた間に、虚空に向かって呟く。

「とっくに手遅れだったんだよなぁ……」

凛とした横顔。
周囲から隔絶しているから、気難しいヤツかと思ったら、違った。
良い奴だ、と思った瞬間に興味を持っていた。
いろいろなもんを抱えていて、どこか寂しいヤツで、力になれればいいと思った。
けれど、自分なりの気高さというか誇りを持っているヤツだった。
次第に頼られるようになったという実感があった。
それは淡い感動で、けれど徐々に心を支配した。

でも、あんなふうに笑うなんて知らなかった。

『せっかくのお祭りなんだから、仕事が終わったら遊びたいという気持ちもちょっとあるわけですよ』
『家族みたいな人だよ。お兄ちゃんって年じゃないけどね』
『私は恭弥先輩探してたとこ。先輩、仕事終わったらどっか行っちゃって』

慈しむように、いとおしそうに目を細めるとか、しょうがないなって苦笑するとか、身内を親しく語るとか、
あんなふうに楽しそうに、表情豊かな、アイツを知らない。
温かい感情を向けられるのは自分ではないのだ。
それから、決定的な言葉。

『……なあ、お前らって付き合ってんのか?』
『うん。そうだよ。たぶん、そういうことなんだと思う』

あれは痛かった。
薄々勘付いてはいたけれど、いざ突きつけられてみると、その衝撃は計り知れなかった。
笑って誤魔化すことが精一杯だったのだ。
今知ってよかった、というのは、半分以上が強がりだった。
少なくとも、今は抉るような痛みがある。

相手が幸せならそれでいいと言えるほど大人ではなかった。
幸せなアイツの隣に俺がいるようになればいいと思っていたのだから。
けれど、せっかくアイツが掴んだ幸せを邪魔しようとも思わない。

この思いを誰にも知られず、一人で乗り越えられるだろうか。

「え?」

声に反応して振り向いたツナに、なんでもないと笑った。
すべては後の祭り。


 top 


- ナノ -