40.

「ねえ、本当に変じゃない?」
「大丈夫。似合ってるよ」

エリちゃんに借りた水色の浴衣を動かしながら、何度も問う。
いつもはただ下ろしている髪を後ろで結い上げているので、首筋が涼しくて変な感じだ。
パパとママが笑っている。
すると、並木さんにぽんっと背中を押された。

「ほら、いつまで言ってんだよ。早めに行くんだろ?」
「そっか、もうこんな時間。じゃあそろそろ行こう」

変わり身が早いのは、用意は万全だからだったりする。
巾着袋にはお財布と携帯電話とハンカチ、腕章、携帯護身用グッズが入っている。
仕事用の集金袋と帳簿とペンも忘れてはいない。

「いってらっしゃい」
「いってきます」


神社へは、並木さんにいつもの赤いスポーツカーで送ってもらう。
私はこの車に乗るのが好きだ。
車に乗り込むとき、並木さんはしみじみと私を見て、「お前美人になったよなあ」と言った。
そうかな?と首を傾げたけど、なんにしろ、褒め言葉だ。

車の中で、並木さんは風紀委員のことについてあらためて質問してきた。
パパから私の学校生活について聞いたらしくて、それについても。
私は心配されていたことを再認識した。けれど今はやましいことはなにもない。
恭弥先輩のことも、里奈子ちゃんのことも、自慢するような気持ちで、微笑みながら正直に答えた。

鳥居が見える場所で車は停止した。
外に出て、送ってくれたことに対してお礼を言うと、「楽しめよ」と言われた。
それに頷いて、手を振ってから参道の入り口に向かって歩き出した。
帰りは何時になるかわからないので、迎えがほしいときは電話するようにと言われていた。

にぎやかな声が聞こえてきて、流れるような人ごみを目指す。

それはとても華やかで楽しそうな光景だったのに、
なぜだか私の足取りはだんだんと遅く、鈍く、ゆっくりになる。

そして最後には止まってしまった。

不思議としか言い様がない。
足が竦んで、進める気がしなかった。
ずっと来たかった場所がすぐそこにあるのに、果てしなく遠い気がした。
まるで、知らない世界にひとりで迷い込んだみたいに、急に心細くなったのだ。

きっと、ずっと怖い怖いと自分に言い聞かせていたから、
本当に怖いと思うようになってしまったんだ。
騒音が遠く聞こえた。
幼い頃のトラウマが実は頭の奥にしっかりと根付いているのかもしれない。

待ち合わせ場所はこの屋台の立ち並ぶ、参道の奥にある。
心はもちろん『進みたい』と言っているけれど、足は止まっている。
進むことも戻ることもできず、ただただ途方に暮れていると、
不意に、手を引かれた。
そこにはさっき車から見送ってくれたはずの並木さんが、車から降りて、いた。

「並木さん!?」
「見てられねーだろ。待ち合わせ場所、どこだよ」
「参道の奥の……」

伝えると、並木さんは私の手を握ったまま、一つ舌打ちをして人ごみを掻き分けていく。
私は人にぶつかりそうになって、一瞬おおげさに身体を強張らせた。

「つらいなら目、瞑っとけ」

そう言われて、そこまではしなくてもいいと思った。
同時に、そう提言されるほど過剰反応していたと気づいた。
改めて見回してみれば、時刻が早いせいか、まだ人はまばらだった。
人ごみの中に入ってみれば、視界は自由で、思ったほど怖くはなかった。

それに、実際に目を瞑らなくたって、私は目を瞑ることができたはずだ。
過去を見ないようにするということが。
それはたしかに神経を使うことだけど、怯えていることしかできないほど弱くないはずなのだ。
だから、大丈夫。

私は並木さんに手を引かれたまま、お祭りの光景を眺めた。
色鮮やかな浴衣の人、立ち並ぶ屋台からの匂い、独特の空気。
ずっと憧れていたものだ。

大丈夫だと思い始めても、手を引かれたままにしていたのは、その優しさが嬉しかったからだったりする。
それに、伝わる体温が勇気になる。
どちらにしろ人ごみを縫って歩く慣れてないから、任せていた方が楽だ。

私に余裕が生まれるのを見てとったらしく、並木さんは言った。

「まだ待ち合わせまでに時間あるんだよな?なんか食うか?」
「食べる!えーっとねえ、じゃあ……」

嬉しい提案に、即座に頷いた。
いろんなお店があるので、目移りしてしまう。
並木さんに物を奢ってもらうのはいつものことなので、特に抵抗はない。

「一周まわってからでもいいぜ」
「そうしたい!」

嬉々として、屋台の列に沿って歩き始めた。
最初に目に付いたのは金魚すくい。
このあと仕事があるので、すくった金魚を持って歩くわけにはいかない。
でも並木さんが持って帰ってくれればいいんだよねー、という視線を送ってみた。
並木さんは観念して、お店の人に300円渡した。

ポイを受け取ったのは私だけど、上手く掬えなくてすぐに破れてしまった。
「あーあ」と残念の声を上げると、並木さんが笑って、もう300円渡して、早々に一匹掬ってしまった。
「何匹欲しい?」と聞いてくる余裕っぷりだ。「じゃあ二匹」と答えると、そのとおりになった。

なんとなく少し悔しかったけど、悔しがることも悔しかったから、口には出さなかった。
それにさえ気づいていて、かつ指摘してこない並木さんは、やっぱり大人だなあと思った。
実際、パパよりも一つ上の大人なわけだけど。

「おっ、かえでじゃねーか!」

聞き覚えのある声で、呼ばれた気がして、その方向を見る。
見知った男の子が、チョコバナナの屋台の中にいた。

「山本君?」

隣には獄寺君もいる。目が合うのを避けつつ、『お店側の』人としていることに疑問を持った。
山本君だけなら愛想がいいから知り合いの手伝いとかしてそうだけど、獄寺君はそうは見えない。
大人もいなくて、中学生が二人だけで屋台を経営しているのは変な感じだ。
疑問に思いながら、駆け寄っていく。

「かえでも来てたんだな。浴衣似合ってるぜ」
「ありがと」
「知り合いか?」
「うん。去年同じクラスだったの」
「ども、山本武っス」

山本君はスポーツ少年らしく挨拶をした。
対して、並木さんはへえと呟いただけで、無反応に近い。
他人に対しては意外に無関心で無愛想なのだ。
山本君は、そんな並木さんを見て、尋ねた。

「親父さん……にしては若いよな」
「違うけど、パパより一個上。並木さんは、……えーっと」

次に続く言葉を見つけられなくて、思わず悩みこんでしまった。
親戚ではない。血の繋がりは全くない。
けれど、ただ「パパとママの高校時代からの知り合い」というには、
どこか他人行儀で、『私』自身とのかかわりが浅いみたいで何か嫌だ。
私にとって、生まれたときからそこにいる人だ。
この関係を、一般的な型に当てはめるのは難しい。

助けを求めて並木さんを見たけれど、
並木さんは私がどう答えるのか楽しんでいるようで、助けてくれない。

「……とりあえず、私の知り合いなの」

誤魔化すと山本君は苦笑した。
話題を変えるために、どうして屋台をやっているのかを聞いた。
曰く、七夕大会で公民館の壁を壊して、その修理代を稼ぐためにお店を出す権利をもらったのだとか。
壁を壊して〜のくだりは聞かなかったことにするべし!
それにしても、風紀委員会のところに屋台の一覧表を承認する書類があったのだけど、
店名と場所と値段に気を取られて責任者の名前まで見てなかったのかな、と思う。
それとも、責任者の名前は保護者に書いてもらったのだろうか。きっとそうだ。

「じゃあ一本ください」
「おう、まいど!ありがとな。注文受けてからイギリス製のチョコ塗るんだぜ」
「ベルギー製だ」

黙って(睨んで)いた獄寺君が、一言だけ発して怖かった。
当然お金を払うのは並木さんで、私は記憶にある限りでは初めてのチョコバナナを受け取って、頬張った。
多少間違えていたとはいえ、こだわっているだけあって、それはとても美味しかった。
思わず笑顔になる。

「おいしい!」
「そう言ってもらえると嬉しいぜ。なあ、獄寺」
「……知るか」

獄寺君はつまらなそうに言ったけど、
山本君と並木さん、私が味方だと思える人に囲まれていると、
安心感に包まれてか、その態度もあまり気にならない。
やっぱりお祭りって楽しい。
そんな最高の気分でいると、並木さんがチョコバナナを指した。

「かえで、一口」
「いいよー。並木さんのお金だしね」

承諾して、チョコバナナを並木さんの口に持っていく。
一口食べたのを見て、「おいしいでしょ?」と聞くと、「まあまあだな」と返される。
これだから金持ちは舌が肥えすぎているのだ。
と思ったけど、毎日並木さんが羨むパパの料理を食べてる私も同じくらい舌が肥えているはずで、
その私がおいしいと言っているのだから、並木さんもおいしいと感じるはずだ。
それに、こういう場所で食べるものはいつもとは一味違う。
だから、お店をやっている二人に対して嫌味を言っているだけだ。

山本君と獄寺君が固まってこちらを見ていることに気づいて、
「おいしかったよ?」と、もう一度言った。
山本君は何か言いたげに私を見ていたけど、その意図に気づかなかった。
私が並木さんにしたことは、私にとってあまりにも自然なことだったから。
実はそのとき、並木さんは二人に向けて挑発的な笑みを浮かべていたのだけど、
私の位置からは見えなかった。

「そろそろ時間だな」

並木さんが腕時計を見る。
私も、ケータイを確認した。
待ち合わせの15分前。

「そうだね。そろそろ行かなきゃ。……じゃあ山本君、またね」

そうして、私は再び並木さんと手をつないで、歩き始めた。


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