39.手をのばしたら

「おはよう」

すべての基本は挨拶だ。
その教えがなかったわけではないのに、それさえも出来なかった自分を嘲うしかない。
声を掛けると、女の子たちは一瞬呆気に取られた顔をする。
けれど、驚きながらも挨拶を返してくれるから、私は今度こそ変わりたい。

「おはよう、里奈子ちゃん」
「……どういうつもり?」

里奈子ちゃんは、窺うように私を見た。
それでも悪い気はしない。
曇った表情はどちらかというと判決を恐れているように見えたから。

「ありがとう、心配してくれて。大丈夫、どこも痛くないよ」

昨日ぶつけた後頭部を指しながら言った。
自然に笑みが零れる。里奈子ちゃんに敵意はないとわかっているから。
見守ってくれる、支えてくれる人がいるから、踏み出す勇気を作り出すことが出来た。

「里奈子ちゃんに嫌われないような人間に、変わりたいと思って」
「そんな簡単にできるの?」
「出来ないけど、努力するよ」

だから協力してほしい。口には出さなかったけど、じっと懇願の視線を送った。
自転車を返してくれたことは、里奈子ちゃんの心情に何かしら変化が起こったってことだ。
このクラスで、里奈子ちゃんの力が借りられれば百人力なんだ。

立っている私に見下ろされることが嫌だったのか、
里奈子ちゃんはガタリと椅子から立ち上がった。

「……今までのこと、やりすぎた部分については謝る。それ以外のことは謝らないけど」
「それでいいよ」

そう言うと、里奈子ちゃんは「行こ」と友達を引き連れて廊下に行ってしまったので、
私はもう一度「ありがとう」と呟いて、席に着いた。
その日から、「おはよう」と挨拶をすることだけは絶やさなくなった。

私が作り出した殻を壊せるのは私だった。


それから、梅雨が明けた。
夏休みも目前だ。


廊下で偶然会った京子ちゃんに海水浴に誘われたりしたけど、残念ながら断った。
ハルちゃんも一緒だっていうから、本当はすごく行きたいところだけど、ダメなのだ。
私は、水泳の授業を全部見学するくらい、記憶を持った水の中に身体を浸からせることが苦手だった。

過去を見る能力は無生物にも適用されてしまう。
たくさんの人とリアルタイムで共有された水は、取りとめもなく私の視界に過去を映す。
拒絶してもしきれない。自分が自分じゃなくなってしまいそうなのだ。
実際、小さいとき海に行って、水の中で気を失ったことがあるらしい。
お風呂くらいなら平気なのは、いつも私が一番初めに入るせいと、狭いからだと思われる。
もちろん、水泳の授業中に未来を見てしまうのも少し嫌だ。

でも、去年はなんと思われても仕方ないから気にしないようにしていたけれど、
仲良くしようと思っている段階で、水泳の授業をすべて見学すると、視線が痛い。
親からの連絡が担任に入っているとはいえ、体調不良じゃ説明がつかないのだ。
我侭で休んでいると思われる。ある意味、我侭なのかもしれないけれど。
「どうして?」と直球で聞かれたりする。
言い方を誤ると「ずるい」と言われてしまうので、泳ぐと体調を崩すと説明する。

見学のときは授業の内容をプリントにまとめて提出しなくてはいけない。
体育の成績を5にキープしているのは普段からの努力の賜物だ。
自分がプールに入っていなくても、みんなの様子を見ているのは楽しかった。
余談だけど、水泳が苦手らしい沢田君は、女子に混ざってバタ足の練習をさせられていた。
可哀想に、ご愁傷様と思いながら、密かに笑っていた私はやっぱり性格が悪いのだろうか。


京子ちゃんは並盛神社でのお祭りも誘ってくれたけど、それも断った。
せっかくの気持ちは嬉しいのに、否定的な答えばっかりで嫌われないといいな。
今度は私からどこかに誘ってみようと思う。

そう、私はお祭りもダメなのだ。

海もプールもお祭りもダメだなんて、夏休みの半分は損してると並木さんに言われたことがある。
もちろんそれは皮肉を含んだものではなかったけれど、少しの憐れみは含まれていた。

お祭りに行けないのは、人ごみが苦手だからだ。
少しの接触でも出来れば避けたいと思っているのに、道を埋め尽くすような人々に分け入っていく勇気がなかった。
ぶつかるたびに人の過去を見て、視界が定まらず、ふらふらと迷子になる。
幼い私はやっぱり次の日、熱に浮かされてしまったらしい。
それ以来、お祭りの日は庭に集まって、カキ氷を食べたり花火を眺めたり、買ってきた花火をしたりして、
お祭りの雰囲気を擬似的に楽しみながら過ごしている。
エリちゃんの知り合いから借りた浴衣を着たりして遊んでいるけど、実際にお祭りに行ったのはもうずーっと昔のことだ。

でも、今になってぼんやりと思うけれど、
お祭りに行くことは不可能ではないはずなのだ。

私は目を瞑ることが出来るのだから、たとえば人ごみの中で目を閉じながら歩けばいい。
幼いときと今とは違う。力の制御が上手くなったはずなのだから。
どんなに視界が揺らいでも、歩みが揺らがない強さがあれば。

泳げないことは、人と同じように水に恐怖心を抱いてしまうから、仕方ないと思えるのだけど、
お祭りは話を聞いたりするだけで好奇心が芽生えて、興味がないわけでもない。

ただ、大変な思いをしてまで実行する勇気がなかっただけだ。
怖いから避けて通るというのは私の生き方そのもので、とても保身的だった。
傷つかないように逃げる習慣がついていたのだ。

一歩踏み出した今、このままならいつかお祭りに行けるかもしれないと、
廊下の窓から青い空を見上げながら思った。
夏服になっても、私の制服がみんなと違うということに変わりはないけれど、いろんなことが変わっていく。
だから。
――いつか、無理をする価値のある機会があれば、の話だけど。


そう思っていると、恭弥先輩から意外な言葉があった。

「お祭り……ですか?」
「そう。風紀委員会の活動費の徴収。
8月4日午後五時に並盛神社の境内に集合ね」

ああ、だから最近お祭りの屋台の申込書を受理していたのか、とか、
一覧表を作る仕事があったのか、とか、
去年の夏休みに『特別収入』という歳入があったのか、とか、
まさか予算が足りないなんてことはないはずなのに……と思った。
それでも、風紀委員会の活動にはお金がかかることもあるので、最後の点は良しとしよう。

去年は声を掛けられなかったのに、今年になって誘われるということは、
風紀委員としての私も、一年間で大きな変化があったということを示していた。
事務作業じゃない仕事なんて珍しくて新鮮だった。

拒否権のないことだからこそ、覚悟を決めることができて、
少し怖いけど、前向きに考えれば、とても楽しみだった。

「お祭り……、お祭りかあ」
「何?」
「私、お祭りってすごく久しぶりなんです。だから楽しみで」
「ふうん」
「仕事ってことは、制服ですか?」
「どうして?」
「浴衣着ていっちゃダメですか?」
「……別にどっちでもいいけど」

お祭りに行くなんて本当にほんとうに久しぶりだから、少し浮かれてしまう。
せっかくだから浴衣を着たいし、屋台も見て回りってみたい。
綿飴に金魚すくいにリンゴ飴にクレープにたこ焼きにチョコバナナにくじ引き。
並木さんがたまにお土産として買ってきてくれたり、光景を見せてくれるから、知識だけはある。
五時半集合ということは、早めに行けば少し歩き回る時間はあるだろうか。
仕事はどれくらいで終わるだろう。その後、恭弥先輩は暇だろうか?

考えれば考えるわくわくしてきた。


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