「かえで」
保健室らしき場所で目覚めた私は、まず始めににパパの顔を見た。
それから恭弥先輩も。
どうして此処にいるのか、と思ったけど、次第に頭が覚醒して、把握できた。
最後の記憶は、絶望に染まる里奈子ちゃんの顔。
――里奈子ちゃんは悪くない、と、誰かに弁解したかった。
パパは、今日は畑にいたんじゃないだろうか。
わざわざ駆けつけてくれたのか。
心配をかけてしまった。迷惑をかけてしまった。
『大丈夫』と伝えなくてはいけない。
そう考えていると、パパはいつになく真剣な顔で、声で言った。
「かえで、何があったのか話して。
そうじゃないなら、過去を見る」
耳元で囁かれた声はいつもと違っていて、ぞっとした。特に後半部分。
パパに似合わない、脅しみたいな台詞。
普段の優しさと正反対だからこそ迫力があるのだ。
能力を使って脅迫するなんて、いくらでもできてしまうからこそ、私たちはしてこなかったのに。
でも、パパにそれを言わせているのは私だった。
おそらく声を潜めているのは恭弥先輩に聞こえないようにするためだろう、
私は、恭弥先輩が『知っている』ことを『知らせていない』から。
寝ている私の耳に、近づけるだけ近づいて、
触れるか触れないかのぎりぎりの距離で、それでも絶対に触れてこない。
その手は震えているような気がした。
思い出すのは、触れられることを拒絶した自分。
私自身は、拒絶されることをなによりも恐れていたというのに。
傷つけていた、と改めて実感した。
パパはそれでも自分が傷つくことを厭わずに、ぎりぎりまで踏み込んでくれた。
きっと、妥協って言葉はこういうときに使うのが正しい。
私は、自分が傷つかないことばかり考えていたのに。
果たして『踏み込めばいい』という恭弥先輩の言葉の真意を理解していたのだろうか?
踏み込んだんじゃない。伸ばされた手を取っただけ。
許されることに甘えているだけではないのか。
エゴにまみれている、と思った。
パパに過去を見てほしくなかったのは、
自分と同じ力だからこそ、どういうものかわかっているから、怖かった。
でも、そこまでして隠し通さなければいけないことなんてあっただろうか?
心配ならもう十分すぎるほど掛けていて、
弁解ならあとでいくらでもすればいいのに、それさえ身勝手に拒否していた。
私は、まったく成長していない。
応接室に通うようになってから、依存したくないと思って、勉強にのめりこみ、
教室では拒絶される前に、拒絶するという相変わらずの姿勢を貫いた。
応接室に居座って、教室から逃げることは、依存することではなかっただろうか。
家庭に依存して、学校では静かに過ごしていたころと何も違わない。
壁を壊そうと決意したのに、範囲を変えて、また新しい壁を作り直しただけだった。
堅い殻の中で蹲ってしか生きられない。
――怖い、怖い、怖いと言って、目の前を真っ暗に塞いだのは、私だった。
里奈子ちゃんのことにしてもそうだ。
自分さえ良ければいいと言って、いつまでも変わらないでいた。
現状に妥協している間に、傷つけてしまった人がいた。
いつまで甘えを続けているつもりだったのかな?
ついに許容範囲を越えてしまった今。
パパの目を見る。
今まで、その優しさで見守ってくれた力強い人。
見放されるなんて想像がつかない。
――私が変わるために、手を貸してくれるだろうか。
「パパ、ごめんね。見ていいよ」
そう言って、私はパパに抱きついた。
自分を曝すことには予想以上に勇気がいって、恭弥先輩の偉大さを改めて思い知ったのだ。
恭弥先輩にも言わなきゃいけないことがたくさんある。
しばらくすると、ぎゅっと背中に手を回された。
人の体温ってやっぱりあったかい、と感動した。
何を見てるんだろう、どの私の過去を。と予測していると、全身にパパの声が響いた。
「それでもやっぱり、かえでの口から説明してほしい」
それは信頼されている証だと思ったから、素直に頷いた。
恭弥先輩の不機嫌そうな視線にも気づいたので、苦笑ぎみで話した。
「わかった。なんでも答える。恭弥先輩も聞いていてください」
そう言うと、パパは驚いて振り返ったので、恭弥先輩の存在を一瞬忘れていたようだ。
ものすごーく失礼だから、むっとされてしまうのも無理はない。
パパの顔はだんだん青くなる。この特殊な一連の会話を見られていたからだろう。
恭弥先輩には、どうせあとで責められることも弁解しなくてはいけないこともわかっているので、
私はパパに対して語った。
「パパ、大丈夫だよ。恭弥先輩には話してあるの」
「え?」
「……つまり、特殊なのは君ひとりじゃないってこと?」
「はい」
パパは目を見開いてから、私の頬に掌を触れた。
もちろんもう拒絶なんてしない。少し気恥ずかしくはあるけれど。
その手はすぐに離された。
「……そうか、よかったね。見つかったんだね」
「うん。だから私は引っ越してきてよかったと思えるの」
「でも、かえで。今回のことは?」
「悪かったなあって、反省してるよ」
「悪い?」
なにかいけないことを言ったみたいに問い返されて、一瞬怯んだ。
そして、パパが私ではなくて里奈子ちゃんを責めているのだと気づいた。
「あのね、パパも見たと思うけど、あれは事故だったの。
里奈子ちゃんにそんなつもりはなかったの。……たぶん。
だから責めないでね。それよりも私の」
態度がいけなかったの、と言おうとしたら、パパがベッドを叩いた。
「かえで!今回はたいしたことなかったからいいけど、もし何かあったらそれじゃすまないんだよ?」
「……うん。わかってる。心配かけてごめんなさい。
けれどやっぱり里奈子ちゃんは責めないで。私、もう一度話がしたいから」
新たな決意を語ると、パパは心配そうに私を見た。
じっと目を逸らさずにしばらくいると、大きな手が頭を撫でた。
恭弥先輩を指して言う。
「かえでを此処に運んだのは彼だけど、彼に居場所を教えたのは『里奈子ちゃん』だ」
「え、そうなの?」
「うん。だから悪い子じゃないのかもしれない。それでも、今度こそ約束できる?」
「――うん。ちゃんと相談する」
しっかりと頷くと、パパは私の荷物を持って、言った。
「じゃあ今日はもう帰ろう」
「あ、でも委員会……」
私は、恐ろしく不機嫌な恭弥先輩をちらりと見た。
ここまで運んで、しかも今もなお付き添ってくれているなんて破格の対応だ。
睨まれても、心が嬉しいと思うのは不謹慎だろうか。
「明日朝イチで応接室」
「……了解です」
立ち上がると、貧血みたいに頭ががんがんした。
パパは私の手を引いて、保健室から出るときに振り返って言った。
「恭弥君。――娘を、よろしく」
そこでパパはドアを閉めてしまったので、恭弥先輩の呆気に取られた顔の残像だけが残った。
私も驚いたけど、パパのどこか楽しそうな様子に、ただただ閉口した。
ちなみに、学校に置き去りの私の自転車を、車に積んで帰ることになって、
自転車置き場に行くと、そこにあった自転車には、チェーン錠なんて掛かっていなかった。