36.

里奈子は目の前の光景に愕然とした。
長い黒髪、陶器のような白い肌の少女が階段の踊り場に横たわっている。
瞼は閉ざされていて、その姿は絵画のようだが、
彼女は自分のいる場所から、そこに落ちたのだ。

震えながら、その光景を作り出した自分の手を見る。
肩を押した感触がまだ残っていた。
内藤かえでの、驚いたような表情が焼きついている。
そこまで高さがあるわけではないが、気絶しているので当たり所が悪かったのだろう。

そんなつもりはなかった。
ただ、勢いで手が出てしまった。

呼び出したのは、悪意を向かわせる場所がほしかったからだ。
嫌がらせに効果がなかったから、せめて、思っていることをすべてぶつければ気が晴れるかと思った。
それでどうするつもりだったのかはわからない。けれど、これで終わりにするつもりだった。
それでも、感情に身を委ねてしまうのではなく、あくまでも理性的に、言葉で解決しようと思ったのだけど、
反応が返ってこなかったから、自分だけ感情をぶつけたみたいで惨めになった。
傲慢な口調で虚勢を張ってみたけれど、薄っぺらいことは自分が一番良くわかっていたのだ。

だからって、取り返しのつかないことをしてしまった。
「あ、あ」と情けない声を出して、階段の上で狼狽えた。
そんなことをしていても仕方ないことはわかっている。
今は放課後、帰る人は帰って、部活に行く人は行っている時間だから、
誰かが此処を通ることはほとんどないだろう。
だから、内藤さんを助けるためには誰か人を呼んでこなくてはいけない。
誰か、人を。

そう思っても足が動かないのは、自分の根本にある弱さのせいだと里奈子は思った。
里奈子は、もともと攻撃的な性格をしているわけではない。
社交的になるために、弱さは虚勢で押し込めた。
人にも物にも、治らない傷をつける勇気なんてなかった。

教室に行けば、この時間でも誰かだらだらと喋っている人がいるかもしれない。
職員室に行けば、確実に誰かはいる。
でも、なんて説明する?

クラスメートも、殆どの教科の先生も、里奈子が内藤かえでをどう思っているかなんて知っている。
わかりやすい態度を取っていたのだ。
しかも、今日の朝に里奈子が内藤かえでを呼び出していたことも、知られている。
それを踏まえたこの状況は、里奈子が悪意を持って内藤かえでを突き落としたようにしか思えない。
軽蔑の視線が、非難の声が怖かった。
せっかく築いた立場なんてものは一瞬で崩れ落ちる。
もともと、内藤かえでには味方が多かったのだ。

では、いっそう逃げてしまってはどうか。
そうできたらどんなに楽か、と思う。
けれどダメだ。見捨てる勇気もない。
今以上の罪悪感に永遠に悩まされる気がする。
それに内藤かえでが目覚めたらこのことを人にどう伝えるだろうか、と考える。

教室もダメ、職員室もダメ、なにかしなくてはいけない。
追い詰められた里奈子は、内藤かえでが着ている、自分のと違う暗い色の制服を見て、ひらめいた。
その可能性は賭けだ。

けれど、――応接室なら人目につかない。
少なくとも里奈子が恐れているような、クラスメートたちに知られるようなことはない。
風紀委員に知り合いはいない。けれど、内藤かえでが大切にされていることはわかる。
制服のこともそうだが、女で風紀委員を名乗るのは本当に凄いことなのだ。
それに、風紀委員長雲雀恭弥と一緒に帰っているのを目撃したことがある。
それは特別な人間だと思い知らされたみたいで悔しかったのだけど、
別に里奈子は雲雀恭弥の密かなファンとかではないので、それ以上はなかった。
(顔が整っているとは思う。でも性格に難あり過ぎだ)

もちろん、危険もある。
風紀委員会はこの学校で最も目をつけられてはいけない組織だからだ。
でも、正面から助けてほしいと頼み込むわけではない。
応接室のドアのノックして、此処の場所を書いた紙を落としておくだけだ。
たぶん、風紀委員長はプライドが高いと聞くから、ノックされたドアをわざわざ開けてやるまでには時間がかかる。
けれど同じ理由で、ノックされたドアを放置しておくこともないだろう。
内藤かえでを大切に思うなら駆けつけてほしい。

結局、自身は逃げる形を取るのだけど、それが出来ることの限界だ。
内藤かえでが里奈子を告発して、裁くというならそれまでだ。
過ちなら認めて、諦めるしかない。失望はするかもしれないけれど、仕方ない。
こうなった以上、里奈子は里奈子に考えられる最善のことをするまでだった。
ゆっくりと階段を下りて、内藤かえでの制服の乱れを直してやった後、迷いを振り切って、走り出した。


里奈子のこの作戦は、結果として功を奏した。


雲雀恭弥は応接室で、かえでの残したメモを見て、不機嫌そうに眉を顰めていた。
毎日通ってくるようになってから今までこんなことはなかった。
せっかく自分のものになった少女。今日はそばにいようと思っていたのに。
イライラと時計ばかり気にした。時間は中々過ぎなかった。

そのとき、密やかな足音が応接室に近づいてきて、ドアをノックした。
でも、いつまで経っても「失礼します」の声はない。
ヒバリはしばらく扉を眺め、睨み、立ち上がってトンファーを構えて、近づいて、扉を開けた。

ドアの前には誰もいなかった。
視線を感じて、その方向を睨んだが、追いかけるよりも先に廊下の床に落ちていた紙を拾った。
そして、そこに書かれていた内容を見て、目を見開いた。

『北館の屋上へ向かう階段に内藤かえでが倒れている』

信憑性があるとはいえなかったし、鵜呑みにしたわけではなかった。
十中八九、不届きな輩が自分を呼び出すために使った罠だろうと思った。
それでも、今此処にいない少女のことを案じるのは当然のことだった。

応接室に鍵を掛けて、その場所へ歩いた。
つもりが、気がつけば走っていた。

北館の3階よりもさらに上の階段の踊り場で、かえではたしかに倒れていた。
何があったのかはわからない。見える範囲に外傷はなかった。
位置からして階段から落ちたのかもしれない。
他に人影はなかった。
雲雀恭弥は、それ以上考えるより先にその少女を抱き上げて、保健室へ向かった。


ちなみに雲雀恭弥の保健室での第一声は、「触ったら殺すよ」だった。
かえでをベッドに寝かせ、その髪を撫でる。
頭の後ろにタンコブが出来ていることに気づいた。

いろんなことに驚いたりからかったり変な気を使って百面相をしていたDr.シャマルは、
かえでの保護者に連絡を入れ、「すぐに目覚める」と言った。
ヤブ医者を信じられないせいか、ヒバリはしばらくその場を動かなかった。


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