35.

「放課後すぐに屋上に来て」

そう言った里奈子ちゃんの目は逃げるなと告げていた。
だから私は、迷わず頷いた。
教室では他の女の子たちがざわめいていた。

不思議と怖くはない。
もともと、里奈子ちゃんが怖いわけではなかった。
気をつけていれば、過去なんて見えない。
罵声なら受け止めるだけだ。


その昼休みに、私は素早くお弁当を食べてから応接室を訪れた。
呼び出されたわけではなかったので、恭弥先輩はいなかった。
教室か、屋上か、校庭か、……校外かもしれない。
力を使えば追跡できるけど、今日はストーカーをしにきたわけではない。
校内で唯一のテリトリーに心癒されに来たのだ。

『怖くはない』
そういう気持ちになれるのは、きっと満たされているからだと思う。
私の心はもうあの人に明け渡してしまった。――恭弥先輩。

あれから数日、日常が大きく変わったわけじゃないけど、そばにいるだけで幸福な気持ちになれる。
少しだけ変わったのは、帰り道にときどき送ってもらうようになったこと。
朝は大変だけど、自転車が使えないことを良しとしてしまうのはそのせいだ。

椅子に触れて、一瞬だけ過去の映像を、その姿を眺めた。
一瞬で充分。瞼に焼き付けて、それが私の力になる。

『放課後、少し遅れます』
メモにそう残し、私は応接室を辞した。



その場所に行くと、すでに里奈子ちゃんが待っていた。
逆光に照らされて、私に向かって「遅い」と一言のたまった。
違和感を感じて、あれ?と、首を傾げる。

「一人?」
「そうよ」

里奈子ちゃんは教室でも一人でいる印象がない。
だから今日もてっきり友達と一緒かと思ったから、少し意外だった。
顔に『意外』と書いてあったらしく、里奈子ちゃんは顔を顰めた。

「私は一人じゃ何も出来ないってわけ?」
「いや、そうじゃないけど……」
「誘えば来たと思うけどね、いらないって言ったの」
「どうして?」
「内藤さん、人が多ければ黙りこむだけじゃない」
「…………」

的を射ていたので、否定できなかった。
たしかに他の人と話をするなら一対一で、できれば間に少し距離があるほうがいい。
それを里奈子ちゃんがわかっているというのが意外だった。

そういえば、里奈子ちゃんという人はいつもクラスの中心にいて、クラスの皆に気を配っている。
その視野に私も入っていたというわけなのだ。

「私に言うことがあるでしょ?」
「なんで?それは里奈子ちゃんじゃ……」

呼び出したのは里奈子ちゃんなのだから、私に用件を求められても困ってしまう。
でも視線に言葉を詰まらせると、里奈子ちゃんは私に見えるように何かの鍵を取り出した。
すぐに、それがなんなにのかはわかったけど、
里奈子ちゃんの意図は、何がしたいのかはわからない。

「それ、自転車の鍵?」
「そう」
「……返して、……ください」
「私、別に敬語を使われたいわけじゃないから。
それに、これは私のお金で買ったんだから、私のものだし、『返す』のはおかしい」

そんなふうに正論のような正論じゃないようなことを言われて、私は戸惑うだけだった。
罵倒する言葉なら受け止めて、謝罪を求められているなら謝って、
そう思っていたのに、里奈子ちゃんは私の受け身な姿勢を許さない。会話を誘導されているみたいだった。

「じゃあ、どうすればいいの?」
「どうして私がこんなことするか考えたことある?」
「……私を嫌ってるから?」
「そう。どうしてあなたは嫌われてるの?」
「人と関わらないから」

常々思っていたことなので、そこだけは断言できた。
でも、里奈子ちゃんは「半分正解」と言う。
半分は不正解ってことだ。
見透かすような鋭い視線が私を射抜く。

「あのね、人より優れてるくせに、人間関係なんかどうでもいいって顔して、
それでも人に認められてるアンタを見ると、
自分を真っ向から全否定されたような気になって、むかつくのよ」

言葉だけは強いけれど、なんだかその声は泣きそうに響いた。
一瞬だけ表情が弱弱しく歪む。

そんなことない、と、否定の言葉が喉元まで出掛かって、飲み込んだ。
里奈子ちゃんの真剣さに対して、その言葉があまりにも安いもののような気がしたから。
ゆっくりと言い放たれたことを反芻して、私は、改めて里奈子ちゃんという人物を見た。
過去の人物にダブらせて、意味もなく目を逸らそうとしてきた。
それは失礼な事だってわかっていたつもりだったけど、本当にはわかっていなかったんだ。

クラスの中心で、いつも皆を盛り上げる人。
私のことも気に掛けてくれていた人。
ずっと拒絶し続けてきた。

私は、人より優れてなんかいない。
まともな人間関係を築けることのほうがずっと立派なことだ。
そうは思っても、優秀な成績を収めていることは事実で、
教室では今まで『容認』されていたのだと、ひしひしと感じる。

里奈子ちゃんは私とは正反対の、人間関係を大切にする人だ。
人間関係を蔑ろにして、のうのうと生きている私は里奈子ちゃんの理念を否定することになっていたのだろうか。
否定されることは苦しい。
だから、里奈子ちゃんは私を容認することをやめた。自分を守るために。
そういうことだ。
納得できてしまったから、里奈子ちゃんを嫌いにはなれない。

私は、今まで教室の中にいても、部外者として傍観者として、ただ皆を眺めていた。
近寄らない代わりに、耳を立てて人間観察するのが癖みたいになっていた。
だから、人の深い部分に触れたことなんてなかった。
過去ではなく、現在と向き合おうとしたことなんてなかったんだ。
本音を曝した里奈子ちゃんに対して、親近感に似ているものが、すっと胸に沁みた。

『自分を否定されている』と感じることに憐れみを抱くのは間違いだとわかっているのだけど、
心が震えて、動けなかった。目を逸らさなかった。


でも、里奈子ちゃんが気まずそうに「なんか言いなさいよ」と私の腕を掴もうとして、
私は、咄嗟にそれを避けてしまった。
その理由は、きっと『嫌えない』と思っているこの状態では、
いつものように心のバリアが働かず、過去を見てしまいそうだと思ったからだ。

今の私にとって、里奈子ちゃんは、
すべてを遮断することも、すべてを曝け出すこともまだ出来ない、一番危険な立場だった。
目を逸らすことはできない。けれど、過去を見たくはない。
『見たら嫌われる』という考えが、根本にあって、やっぱりそこも私の変われなかった部分だった。

けれど、里奈子ちゃんはそんなことを知っているはずはないので、
その振る舞いはただ逆上させる結果を生み、「なんなの?」と、肩を押された。
少しだけ強い力。
きっと本人は力加減を忘れていて、私は後ろが階段だということを忘れていた。

足を踏み外して、浮遊感に見舞われる。
背筋が凍りついて、声が出なかった。
必死で手すりに手を伸ばして 触れた のだけど、
無防備な意識の中、嘲うように視界は移り変わった。

突然目の前に人が――過去の光景が現れて、私は、驚いて手を離してしまった。
最後に見た『現在』は、絶望した里奈子ちゃんの顔だった。
心配しないでほしかったのだけど、私は鈍い痛みに意識を手放した。


心に浮かぶのは、愛しい人が「かえで」と呼ぶ姿。


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