33.

家に着くよりも一つ手前の角で下ろしてもらった。
バイクが家の前に止まったらパパに驚かれてしまうからだ。
冷たい風は恭弥先輩の背中が遮ってくれていたので、頬には熱が宿ったままだ。
心臓が脈を打ち、血液が全身に巡る。
滾る思いを内に、私は紅潮した顔を隠すように俯いていた。

「ありがとうございました」

顔を上げて、なんとかそれだけ言った。
今更のような気もしたけど、気恥ずかしさが勝っていた。
夕焼けに紛れてほしい。
そうすれば、いつまでも此処にいられる気がする。

「じゃあ、明日」

淡い幻想とは裏腹に、恭弥先輩は私に別れを告げた。
もともと送ってもらうことが約束で、家に着いたのだから、これ以上用事があるわけではない。
でも、それでは寂しい。だから、引き止めたい衝動に駆られる。
送ってもらったお礼をしたいし、出来ればいいのだけど、家に招くことは冒頭と矛盾する。
この思いをどこに向かわせよう?

思いついて、すぐに、黒い学ランの裾を掴んだ。
さっきまで腰に巻いていたせいで、皺になってしまっていて、申し訳ない。

「そうだ先輩、今欲しい物ってなんですか?」
「……なんで?」
「もうすぐ5月5日だからです」

先輩の誕生日を、今まで忘れていたわけではない。
考えて、考えて、考えた末、ゴールデンウィークに選びに行くことにしたのだ。
もちろん充分にお金は貯めてある。持ち株を売れば、相当額になるはずだった。
恭弥先輩が欲しい物なら、どんなに探し回ってでも手に入れてみせる。
この質問を今するのは適当なはずだった。

「そんなの、当日に言って」

私は反射で頷いたけど、ゆっくり意味を反芻した。
当日に恭弥先輩に聞いて、用意しなくてはいけない。
特記すべきは、祝日にも先輩に会う許可をもらったらしいこととか、
朝にいつもの時間に学校に行ったとして、
それからプレゼントを買いに行ける範囲や制限時間どのくらいだろうとか。

考えている間に、先輩はバイクを発進させた。
私は小さく情けない声を出して惜しんだあと、「また明日」と叫んだ。

駐輪場にいたときの沈んだ思いは、綺麗に消えていた。


「ただいま」と言えば、当然のように「おかえり」の声が返ってくる。
漂ってきた、香りは、どこか甘酸っぱい匂いがした。

「なにかお菓子?」
「うん。ベリーのパイなんだ。デザートにどう?」
「もちろん。楽しみだな。……待って」

不意に引き止めると、パパは首を傾げた。
誕生日を祝いたい気持ち。
これなら喜んでもらえるだろうという確信。
喜んでもらえなくても、という自己満足。

「私に、作り方教えて……!」

料理することにはあまり興味がなかった。
与えられることに満足して、必要性を感じなかった。
でも、これを機に、ひとつだけ覚えるのもいい。


5月5日朝。
私は制服を着て、徒歩で学校に向かった。

自転車は相変わらず学校の駐輪所に放置したままである。
でも不自由なだけで、両親にもバレずになんとか生活できた。
普段、家を出る時間は早めに設定していたので、
自転車がなくても急ぎ足でなんとか遅刻せずに学校に通えた。
両親は普段家の自転車置き場には行かないので、ないことに気づかないというわけだ。

鞄には財布と携帯電話と、早起きして焼いた小さなショートケーキが保冷剤とともに入っていた。
とくにこだわりはなく、お菓子(できればケーキ系)ならなんでもよかったので、
パパの勧めで、誕生日ケーキの定番を選ぶことになった。
スポンジが上手く焼けるようになるには何度も練習が必要だった。
パパは、多分京子ちゃんの誕生日だと思っているので、喜んで協力してくれた。
京子ちゃんにもいつか作ってあげたら、喜ぶだろうか。

でも、私は知っていた。
頑張ってケーキを焼いたことと、これを渡す勇気があるかどうかは独立事象だということを。
それでもかまわなかった。

ノックすると「入っていいよ」という声が聞こえてきたので、安心して応接室に入る。

「お誕生日おめでとうございます」

数日ぶりに見る恭弥先輩は、いつもと変わらず麗しかった。
黒いソファーに座っていて、私の顔を見ると、眉を上げて「ほんとに来たんだ?」と言った。
どうやら先輩はこの日の価値を理解していないようだ。
私の執念を見くびらないでほしい。

「そりゃ、来ますよ。大事な日ですからね」

机の上には書類が重なっていた。
ゴールデンウィークの間に溜まったのだろう。
せっかくだから、あとで消化していこうとも思った。

「それで、先輩。今欲しいものって何ですか?」

同じ言葉で問うと、先輩は無言で私を見あげた。
数秒間が流れ、私はその視線にたじろいだけど、逸らせずにいた。
首を傾げると、ふいに恭弥先輩の唇は弧を描いた。

そして、指差したのだ。
その延長線を目で追う。
振り向いても、ドアしかなかった。

「……私、ですか?」

意味がわからず、推測を述べる。
まさかそんな馬鹿な、と思った。

「そう」
「それってどういう……」
「返事は?」

遮った言葉が、要求するのはYESかNO。
理解は遅れて、ゆるゆるとやってくる。
『つまり、』と頭の中で唱えたとき、身体が熱くなるのを感じた。
返事なんて、決まっているのだけど。

「……差し上げます」

与えられるのは、満足そうな笑み。


気づいていないはずはなかった。

普段、校内で無表情に近い顔をしているのに、僕を見ると満面の笑顔に変わること。
些細な僕の言動を、宝物のように、嬉しそうに、大切にすること。
冷静に繕おうとしても、振舞えていない。耳まで赤く染まること。

彼女が、僕にどんな感情を抱いているかなんて。

僕が、彼女にどんな感情を抱くかなんて。
『許容』範囲は、とっくに超していた。
欲しい物を問われる。答えは決まっていた。


気づいていなかったのは『私』の方だった。
あなたの隣で、世界は鮮やかさを増す。


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