32.

次になくなったのは理科のノートだった。
授業の直前に気づいて、何が起こったのかもすぐにわかった。
動揺もあったけど、とにかくどうすべきかで悩んでしまった。
エスカレートしてるじゃないか。
でも、行動を観察されている中で、まさか特殊な能力をひけらかすわけにはいかない。
自然に振舞うように心がけて、机や鞄の中身をひっくり返してみたりしてから発見した。


それから三日後、今度は数学の教科書がなくなった。
さすがに全く同じ手を何度も使うと怪しまれてしまうと思ったので、中々取り戻すことができなかった。
どうして嫌がらせをされている側の私が、気を使わなきゃいけないんだろうと思った。
教室内をうろうろしていると、悪意のこもった笑い声が聞こえた。

とりあえず、見つけるのはあとにして、
どこかから教科書を借りてこようと一度教室を出た。
向かうのはかろうじて知り合いがいるA組。
けれど、途中で足が止まった。
都合が良すぎないか?という声が、頭の中に響いたのである。
人との関わりを絶ってきたくせに、こんなときだけ頼るのか、と。

この間私の方が山本君に社会の資料集を貸したけど、それはそれ、
恩返しのつもりであって、恩を売ったつもりはない。
山本君だから許されるのであって、私には許されない。
これ以上、無償の恩恵に甘えていてはいけない。厚かましすぎる。
京子ちゃんにしても同じだ。一方的に利用していいはずがない。

そう思って、踵を返した。
私の問題だ、これくらい自分で解決しよう。
自分でつけた足かせを、一つだけ外せばいい。

教室の黒板側の扉から入って、教卓の中を覗いて、教科書を発見した。
名前を確認するまでもなく私のものだが、
偶然を装うために安堵の独り言を呟く。

ふと静かになった教室で、『里奈子』ちゃんと目が合った。
驚いて息が止まりそうになったけど、今のところ悪いのは向こうなのだと思って、なんとか無表情を保って一瞥した。
目を逸らしたとたんに堂々と文句が聞こえてきて、嫌な感じが胸に広がった。


その次は体育着だった。
私は授業を休むのも、見学するのも嫌だから、いい加減にしてほしいと思った。
いくら嫌われることが自業自得とはいえ、まっとうに授業を受けることを妨害する権利はないはずだ、と。

トイレの手洗い場の下の棚の中だなんて、マイナーな場所に隠されたはずの体育着を着て、
昼休み終了の直前に平然とグラウンドに現れた私を、彼女たちは驚愕の目で見つめていた。


さらに、体育が終わって教室に帰ると机の中が空っぽになっていた。
盛大なため息をつくしかない。
教室に来るのが遅かったのも原因の一つだった。
でも、廊下を歩く速度が自然と鈍くなってしまうのは仕方ないと思う。
今やこの場所は、一人でいるにしても、居辛いのだ。

 いっそ、休み時間も応接室に居座ろうか。
 ……それいいかも。
 でも、先輩になんて言って?

現実逃避の如く思考を飛ばしてみたけど、そろそろ授業が始まってしまう。
覚悟を決めた。

心の目を開く。机に触れる。過去が見える。
私の荷物は、教室の隅にひっそりと見えないように積んであった。
迷わず足をそこに向かわせると、傍観者があからさまに動揺した。

そう、私の行動は『ありえない』
それがありえているのだから、奇妙な目を向けられても、仕方ないのだ。


「なんでわかるの? なんか、気持ち悪……」


そんな声が聞こえてきた。
自分がやったと言っているようなものだけど、そんなことはかまわないらしい。
特に後半部分を聞こえるように強調して言っていた。

「教えてもらったんだよ」

はっきりとした声で、珍しく反応を返すと、里奈子ちゃんは少しぎょっとした。
でもプライドが高いのか、それを悟らせないような低い声で返した。

「誰に?」
「教えない。約束だから」

それだけ言って、席に着いた。
もちろん誰ともそんな約束はしていないのだけど、勝手に憶測を飛ばして、
内部分裂でもしてくれればいいと思う。

現に、里奈子ちゃんはそれを聞いて、教室中の女子を見回した。
誰もが彼女と目が合うと、首を横に振る。
そのとき、先生が入ってきて、教室内が沈黙した。


その週はそれで静かになったから、やっと難が去ったのかと思っていた。
でも、その考えは甘かったようだ。

月曜日の帰り際、私は委員会の仕事を終えて応接室から駐輪場に向かった。
乗り慣れた自分の自転車の傍まで来ると、地味なようで大きな異変に気が付いた。

「は……?」

間抜けな声を出してしまったのも仕方ないと思う。
本体の鍵とチェーン錠の両方をしてあったし、盗まれていたとかそういうわけではない。
むしろ逆で、鍵は増えていた。
嫌味かと思うくらい、私がかけたチェーン錠のすぐ隣、後輪に、
見慣れないチェーン錠がかけてあったのだ。

「……」

とりあえず持っていた方の鍵を外してみる。
けれど当然ながら、残り一つの鍵が邪魔をして自転車を動かすことはできない。
これじゃ、帰れないじゃないか。

恐ろしいほど有効な嫌がらせだと思う。
物を壊したわけでも(器物破損)、怪我をさせたわけ(暴行罪)でもなく、些細なのだが、
私に過去が見えようが味方がいようが関係ない。なす術がない。
直接里奈子ちゃんに鍵を渡してもらわなくては。

それが私にできるだろうか?『無理だ』と即答する。
こんなことをするくらいだから、少し言ったくらいでは返してくれないだろう。
シラを切られたら終わりだ。
それに打ち勝つほど強く言う自信はない。

何度も言うけど、私は彼女が苦手なのだ。
幼い記憶と一緒に、大好きだった友達と、愚かだった自分が思い起こされるから。
罪悪感を感じるべきはこの『里奈子ちゃん』に対してじゃないとわかっているのだけど。


……仕方ない。
今日はとりあえず歩いて帰ろう。

もちろん不可能ではないのだ。
けれど、家が遠いからこそ自転車通学が許されているのだということを理解してほしい。
並木さんのマンションまで歩いていくというのも浮かんだけど、そこは歩いても近い距離だけど、
仮に助けを求めるとして、この状況をどう説明すればいいのかわからない。
自分の問題だと決め付けたのだから、余計な心配をかけたくはないのだ。
春だから、この時間でもまだ空が暗くなくて、茜色に染まっているだけなのが唯一の救いだ。
これが冬だったら暗い寒空の下で震えながら歩かなくてはいけなかった。防寒対策はしていても辛い。

ひとり、校門に向かって歩き出すと、やけに寂しい気持ちになった。
罰を与えられるということは、反省すべき点があるということだろうか。
生活態度を改めろと言われても、せっかく見つけた生き方をそう簡単には変えられない。
黄昏の風が吹く。


「なにしてるの」


校門を出て少し歩いたところで、声を掛けられた。
一瞬空耳かと思ったくらい、けれど心が震えた。
そこには、ついさっき応接室で別れを告げた人が、黒いバイクに跨っていた。

「恭弥先輩っ!」
「君、自転車通学じゃなかったの?」

タイミングの良い的確な指摘に、言葉が詰まった。
どうして知っているんだろう?とも思うけど、知っていてくれたという点には感動した。
さすがに先輩に嘘はつけない。

「普段はそうなんですけど、今日はちょっと乗れない事情があって、歩きなんです」
「ふうん。じゃあ、乗る?」

当たり障りのない言葉を選んで発すると、
先輩はあっさりとそんなことを言った。
示されたのは先輩の後ろ。二人乗りである。

「乗る? って、ええっ!」
「乗らないの?」
「……乗ります」

思わず頷くと、恭弥先輩は満足げに、私にヘルメットを投げて寄越した。
着けろということだろう。
でもこれは先輩のヘルメットである。
手の中の物を見つめて少し悩んだあと、それでも大人しく装着する。

そもそも二人乗りは良いんだっけとか、バイクの免許は、とか、
いろんな疑問が浮かんだけれど、『恭弥先輩だから』という理由で納得することにする。

恐る恐るバイクに近づいて、先輩の後ろに座った。
当然、先輩の背中が目の前にある。
ちなみに、並木さんにドライブに連れて行ってもらったことはあるけど、バイクに乗るのはこれが初めてだった。

っていうか私、スカートだ。
とか思っていると、恭弥先輩が学ランを貸してくれたので、それを腰に巻いた。
なんて恐れ多いんだろう。

「ちゃんとつかまっててね」

そんなことを言われても、どこにつかまればいいんだろう?
とりあえず先輩の肩に手を置いてみたけど、「落ちるよ?」と切り捨てられた。
おずおずと恭弥先輩の腰に手を回したところで、バイクは問答無用に走り出したので、しがみつく。

頭の中が真っ白になって、通り過ぎていく景色も見えなくて、声も出ない。
腕に少し力を入れるだけで、自分の心臓の音が煩かった。
鼓動の高まりと一緒にこれ以上ないくらい体温も上昇する。

ああ、私はこの人が好きだ。

それは確認のようであって、確認以上の意味があった。
その事実だけが私を支配する。

「きょうや、せんぱい」

意味もなく呼んだ名前は、スピードに掻き消えた。


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