「ルールは簡単だ。僕が寝ている間に物音を立てたら、咬み殺す」
暇を紛らわすためのゲームも、そろそろ挑戦者は10を超えた。
面白いことに、ルールを告げたときの反応は総じて同じだった。
その青ざめた顔に追い討ちをかける。
「ちなみに僕は葉が落ちる音でも目を覚ますから」
呼吸でも止めるつもりかのような顔をしている男を内心で嘲って目を閉じた。
『よっぽど眠りが浅いんですね』
不意にこんな声が蘇ってきた。あれはいつだったか。
『ああ、でも、横になって眼を瞑るだけで身体は休まるって言いますから、問題ないと思いますよ』
今になって、あの子がよっぽど変わっていたということがよくわかる。
最初はなんだったか。
廊下で見かけたとき、委員会の終わり、よく話しかけてくる風紀委員の一年生女子がいた。
内容は当たり障りのないものばかりだったけど、怖いもの知らずだと思った。
普段なら僕直々に受け答えをすることはあまりないんだけれど、
彼女はきちんと風紀を守る人間で、制裁を食らわせる隙がなかった。
群れの気配も感じさせなかったし、言われた以上の仕事もしていて、有能といえたし、
話していて頭の良い人間だということをひしひしと感じた。
優等生のわりによく気が回り、僕が煩わしいと思う前に退散するから、ほんの少しを許容することにした。
『あなたは、かなしい……!!』
いるはずのない場所にいて、問い詰められた彼女はそう口にした。
今思えば、あのとき僕の過去を見ていたのだ。
あの場所にいたのも、過去か未来を見たせいなのだろう。
けれどそのときはただ奇妙な静寂だけが残った。
口を割らせようと思って、わざわざ応接室に呼び出した。
でも不思議なことに、明らかにはぐらかされても殴ってまで暴こうとは思わなかった。
校内で見かけるとき、彼女は常に独りだった。
もちろん、それは僕に不快感を与えないという意味では好ましかったけれど、
『普通』という枠から浮いているということはわかった。
そして疑問にも。草食動物は群れずに生きていけるものだっただろうか。
慣れを装ってしゃんと胸を張って一人で廊下を歩き、凛とした視線で人を見る。
人が怖いわけではない。人が嫌いなわけでも、嫌われているわけでもない。お人よし。
接触だけを異様に恐れていた。
『だってあなたも、目隠しをしてる……!』
『私は人に触ると、その人の過去と未来が見えるんです』
それは一般的な常識と言うものを軽々と逸していたけれど、
目も逸らさずに握った掌を震わせてこちらの反応を窺っている彼女が、嘘を吐いているとは思えなかった。
奇妙な行動もその事実ならば説明がつく。
日頃の誠意の塊のような仕事を思い出す。
だから僕はそれを疑わなかった。納得さえしてしまった。
そして、どうしてそんなものに縛られているんだと思った。
伸ばした指先から逃れるようとする姿。
一定の距離を保とうとする歯がゆさ。
『過去』と言われて、これまで自分の歩んできた道を振り返り、嘲った。
横たわるのはズタズタに切り裂かれた茨の残骸だけ。
『未来』と言われて、何の感慨も抱かなかった。
異能であることは否定の仕様がない。
けれど、そんなものは取るに足らないように思えた。
理由とは殻自体のように感じた。
殻を叩き割ってやろう、と。
伸ばした手は、次は拒まれなかった。
降り注ぐ雨を甘んじて浴びるように、彼女は目を細めた。
こんなものを見て、何を思っているだろうか。
ふとそう思ったけれど、過去を見られることが不快だとは感じなかった。
顔を歪めるわけでもなく、彼女は瞳から大粒の涙を溢れさせた。
手を離すと一瞬視線を彷徨わせたあと、目が僕に焦点を合わせた。
微かに笑った顔は吹っ切れたように見えた。
「今ので僕の過去が見えていたわけだ」
「はい」
迷いもなく頷くのを見て、次に出てきた言葉は、
「やっぱり君は変わってる」 だった。
そのとき、言いようのない、得体の知れないざわざわとした何かが影を落とした。
何も感じなかったを装って踵を返した。
それから彼女は再び応接室に通うようになった。
相変わらず優秀であることに変わりはない。
苗字で呼んでいたのを名前で呼ぶように変え、嬉しそうにしていた。
それまでこの学校で僕の下の名前を呼ぶ人間なんていなかったけど、不思議とその響きが嫌ではなかった。
そして……、
そのとき、隣でガタリと音がしたから、
すぐに目を開けて敗北者に制裁を課した。
一通り身体を動かしたところで再びベッドに腰を下ろす。
院長が新たな生贄を連れてくるまで少し時間があった。
窓の外で枯れ葉が地に落ちる。
『じゃあ、私、犯人探してきます』
『そうですね。じゃあ、風紀委員長の名前も使わせてもらいます』
お人よしなことを言って気丈に応接室を出た彼女は、
帰ってきたとき、本来白いはずの頬を紫に腫らしていた。
それを見たときの内心は穏やかではなかった。
冷静さが一枚のガラスみたいに砕けたのだ。
顔の筋肉を引きつらせながら平気だと言い張る様がさらに苛ついた。
だからと言って彼女に怒りをぶつけるのはお門違いだとわかっていた。
制裁を食らうべきは犯人だ。
最近そんなことがあってから僕の彼女に対する見方は変化している。
――最初はわずかな許容だった。
群れも牙も持たないとある少女は、無視できない存在感を持つようになっていた。
軽いノック音があって、返事をすればドアが開く。
院長かとも思ったが、それは花のような少女だった。
「ご気分はいかがですか?」
「……今日は遅かったね」
「すみません、ちょっと階段から落ちる未来のお兄さんがいて……、
一回は防いだんですが、そのあと結局落ちてしまって、
看護婦さん呼んで手当てしてもらって、
迷っていたらしいのでエレベータまで案内していたらこんな時間になりました」
もともとそういう性質だったのか、それとも一皮むけたせいか、
彼女は案外頻繁に人の未来に口を出しているようだった。
「そうだ、本の続きを持ってきましたよ。
入院してるとやっぱり暇ですよね。
ああ、お見舞いの果物はまだありますか?何か剥きましょうか?」
「桃」
「わかりました」
心地よい声を聞きながら目を閉じた。
普段無数の雑音が蠢いている世界は、信じられないくらい静かだった。
これをなんと名づけようか。