20.アネモネの花言葉

その事件以来、私は毎日応接室に通うようになった。

仕事があるか、ないかじゃなくて、
たとえば過去の資料の整理をしたりとか、掃除をしたりとか、コーヒーを入れたりとか、
そんな余計な仕事を自分で見つけたり作ったりしてこなしている。
書記というよりは秘書みたいだと思う。
おかげで資料や物の在り処にかなり詳しくなってしまった。
前のように空欄に書き込むような書類じゃなくて、今は書類を一から自分で作れる。
パソコンが必要なら並木さんの部屋にお邪魔して使わせてもらった。

もう、ありもしない壁を勝手に作り出して、一人で嘆くのはやめにした。
一番厚いと思っていた壁は恭弥先輩が壊してくれたから、
フィルターみたいに薄くて透明な壁くらい自分で壊さなきゃ。

恭弥先輩は私が応接室に訪れる頻度が変わったことについて何も言わなかった。
暗黙の了解は、作られるときも壊されるときも書き換えられるときも静かだから暗黙なのだ。
沈黙は肯定、という言葉とは違うけど、勝手に許容されているのだと理解する。

私が毎日「明日も来ます」というから、そろそろ習慣になってはいるみたいだった。
私も、そんな日常に慣れと親しみを感じた。
放課後応接室に行くと、恭弥先輩はいたりいなかったりする。
いればコーヒーを入れて、その日やるべき仕事があれば言い渡され、あとは勝手にする。
いなければ私は留守番をしている状態になり、やるべき仕事があれば書置きがある。
そして、下校時刻になると私は先輩にその日の仕事の簡潔な報告書を渡す。
口頭でぐちゃぐちゃ言うのは負担になるし、形に残ったほうが整理しやすいだろう、と思った。

毎日「明日は何をしよう?」と考えながら過ごすのは楽しかった。
誰に強制されるわけじゃない。自分の意思で、したいことをする。
なにをしたら役に立つだろう、これをしなきゃいけない、これをしたら便利だろうか、と、いろいろ並べてみる。
毎日、思いは増幅する。会いたくなる。


ある日、
「君、携帯は持ってないの」
と聞かれたから、番号を伝えて、
そのついでに先輩の着うたの並盛中学校校歌をわざわざ赤外線で送ってもらった。


なお、壁を壊す、とは言っても、私は教室では相変わらずだった。
ある意味「悪化した」といえるかもしれない。
休み時間のたび、前よりも必死に黙々と机で問題集やノートにかじりつくようになったんだから。
放課後の時間は風紀委員会の仕事に捧げることにしたから、
それまで家でやっていた分の勉強を授業中や休み時間に少しでも補おう思った。

私は恭弥先輩の存在がありがたかった。
けれど、誰かに依存することがいいことだとは思わなかった。
自分の力で立っていなくちゃいけないと思うから、成績は落としたくなかった。
応接室に通うようになったからって成績が落ちたら、私は落ち込むと思う。

でも、気づいたことは、
暇だからという理由で漠然と勉強していた以前よりも、
自分で時間を作って効率的に勉強している方がよっぽど身になるということだ。

教室ではいっそう浮いたけど、『先輩は群れを嫌う』という事実を思い出すたびに
苦痛どころか快感にさえ思えるようになった。
私は孤独な草食動物でいい。

クラスメートは私の中で大きな変化が起こったことに気づかない。
もともと私を気にかける人がいても、それは極僅かな人数だ。
あえて誰とはいわない。


そんなわけで、私は大方平和に過ごしていた。
慣れてしまえば、日常は変わらないスピードで過ぎていき、
変わったという事実さえ忘れがちになる。


節目として、定期テストの時期が訪れた。
委員会の仕事が疎かにならないように注意しながら、
時間を割いて勉強に励むわけだけど、やっぱり多少無理をしなくてはいけなくなる。

帰宅部な分、委員会を部活だと思えばいいんだけど、
私は要領が悪いせいか、完璧主義なせいか、
どちらもやり足りないと思ってしまうから、そのたびに睡眠時間を削ってみたり、もちろん、余暇を削ったりする。
だから最近、本を読む数が減った。並木さんの家に遊びに行く数も。

寝不足のわりになんの義務もなく毎日応接室に顔を出す様はやっぱり異様らしくて、先輩の不審げな視線が痛い。
直球で、「別にテスト期間中は毎日来なくてもいいのに」と言われたりもしたけど、
「でも来たいんです。すみません」と丁重に断っておいた。
恭弥先輩は、たとえ私がいなくてもどうせ毎日応接室にいるわけで、
そしてそれでも不動の一位なわけで、なんか負けた気がしてしまう。

そもそも私は、たかが第一回定期考査の結果が幸運にもよかっただけなんだけど、
それで一位という順位に囚われてしまって、取れるはずだと思ってしまうんだけど、
全教科で満点を叩き出す獄寺君の方が異常なんだと思うけど、
それでも、負けるとやっぱり悔しい。
獄寺君は私と勝負しているつもりなんてないだろうし、というか私なんて眼中にないだろうけど、
たとえそれが自己満足の域を出なくても、人に誇れるものが欲しい。
努力で、勝ち取って。

結果だけを言えば、負けてしまった。
あともう少しがどうして取れないんだろうと思うけど、
なんだかんだ言って個人の平均点は上がっているから、悪い成績ではない。
いつか絶対に首位奪還してやろうと思う。

そしてまた日常は回る。


ある日、先輩も応接室にいるときに、なんとなく会話をしたくなって話題を切り出す。
普段は静かにしてるんだけど、せっかく先輩がいるんだから、たまには何か話したくなる。
話しかける瞬間は緊張するけど、そのプレッシャーにも慣れていた。

「先輩」
「何?」
「私、この学校と同じ誕生日なんですよ」
「……10月25日?」

それはちょうど一週間前だった。
パパがケーキを焼いてくれて、いろんな人からプレゼントをもらった。
毎年のことながら、幸せ者だと思う。――今は素直に自分が幸せだと思えた。
でも別にそのことを誇示したかったわけじゃなくて、

「ええ、先輩はいつですか?」
「5月5日」
「わかりました。じゃあ、私があげられるもので、欲しい物考えておいてくださいね」
「…………」

先輩が訝しげに視線を向けた。

「君の誕生日の方が近かったんじゃないの?」
「はい。でももう終わりましたから。それになんとなく、先輩の誕生日を祝うには準備が必要な気がして」

人の誕生日は神聖な気がするんだけど、自分の誕生日は終わってしまえば大した感動はない。
先輩が欲しがるものって想像できないけど、なんとなく安い物じゃない気がする。
だから直前に慌てて何か用意するのは失礼だと思うの。
それに、今、心から祝いたい気分なんだ。先輩が此処に存在していることを。

「考えておくよ」

先輩はまだ納得していないみたいだったけど、とりあえず頷いてくれた。
私は満足に笑みを浮かべた。

「コーヒー入れてきます」


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