19.

未来はときどき見えるだけで、いつ見えるかわからないけど、
過去は気を抜けば常に見えるんです。
だから人に触らないようにしてるんです。


途切れながら説明をすると、恭弥先輩は、「へえ」とか「ふうん」とか、そんなふうに頷いた。
信じているのかいないのかはわからない。
けれど、好奇心なのかなんなのか、私に手を伸ばしてきた。
先輩の指先が近づくと私はびくりと震えて、思わず、逃げ場がないにもかかわらず身を避けた。

「何、そんなに僕の過去が怖かった?」

先輩はそんなことを聞いてきた。
そういえば、私は一学期に先輩に肩を掴まれて、意味不明に泣いてしまった。
その原因を言ってるのかもしれない。
でも、たしかにあのとき恭弥先輩の過去を見たけど、怖かったけど、『だから』泣いたわけじゃない。
複雑な感情を一言で説明は出来ないけど、大半の原因は私自身にあった。

「ちがいます」
「じゃあ何、なんで逃げるの」
「だって、……」

私は一瞬わからなくなった。
どうして?と自分に問い直して、それらしい理由を見つけて納得しようとした。

「人の過去を見たくないんです」
「どうして?」
「だって、悪いから」
「誰に?」
「いろんな人。人の心に土足で踏み込むから」
「踏み込めばいい」

先輩はそんなとんでもないことを言ってきた。
じゃあ何か、恭弥先輩は他人に過去を見られても平気だとでもいうのだろうか。
人間は知られたくない過去の一つや二つ持っているものだ。
それが大したことなくても、他人に過去を見られたいと思う人なんていない。
ましてや先輩の過去は穏やかなものじゃないのに、
痛くも痒くもない?まさか、そんなことって。

それとも、私を受け入れようとしてくれているのだろうか。

「君は、何が怖いの」

あらゆるものが怖い。
人の過去を見ていいことなんてない。
でも、あらゆるものって具体的に何?

この力は気味が悪い?
違う。
"同じ"人たちのことが大好きだから。

人の醜い部分を見たくない?
あるかもしれないけど、今は違う。
だって何を見ても恭弥先輩を醜いとは思えない。
いまさら先輩の過去に失望したりしない。

人の心に土足で踏み込みたくない?
それは先輩が「踏み込めばいい」と言ったから、壁は壊された。理由にならない。
先輩が見せてくれようとしているのに、
恭弥先輩のことを知りたいと思っているのに見るのが怖いのはどうして?

恐ろしい光景を見たくない?
それらしい答えだけど、違う。
怖いことに変わりはないけど、少しは慣れたはずだ。
一番の恐怖はそんなことじゃない。

私が今まで一番怖かったことって、


『触らないで』という数え切れない言葉
怯える顔 異物を見るような目 拒絶

 嫌われること だった。


自分が一番恐れていたことが何か気づいてしまった。
突き詰めて考えれば、それは力とは何の関係もなかった。
本音では私は悪いことすべてを力のせいにしようとしていたのに、それを否定された。

先輩は再び私に手を伸ばしてきた。
今度は逃げなかった。逃げられなかった。
もちろん目を瞑ることだってできない。見えてしまう。
理性と感情が相反しているから。拒絶なんてできない。

肩に手を置かれて、視界が変わる。
長い過去。何度も場面が移り変わる。
暴力、流血、冷たい、気高い、悲しい。
流れ込んでくる。
繰り広げられる。
"雲雀恭弥"という存在を浴びる。


気づいたら涙を流していた。
普通なら、「どうしてこの人はこんなに酷いことをするんだろう」とさえ思ってもおかしくないのに、
不思議と、目や耳を塞ぎたいとは思わなかった。

悲しくはない。哀れみも。

目隠しをしてるとかしてないとか、そんなことは大した問題じゃなかった。
先輩の手にかかればそんなものは一瞬で破壊されてしまうんだ。

恭弥先輩は目隠しの国で、あまりにも威風堂々と歩いていた。
なにも見えていないことが嘘みたいに。諸共しない。
行く手を遮る物は自分の手で壊していた。
どんなに視界が開けていても立ち竦んでいる私とは違う。それが羨ましかった。


ゆっくりと先輩が手を離した。
視界が元に戻る。

「今ので僕の過去が見えていたわけだ」
「はい」
「やっぱり君は変わってる」

『不思議だね』から『変わってる』に昇格された。降格かもしれない。
でもそのことに関してはなんとも思わなかった。
いろんなことが氾濫していて、先輩の声が麻酔みたいに頭に届く。


先輩は私に背を向けて、机の方に戻る。
なにか言わなきゃいけないと思ったけど、泣いた後だからうまく声が出ない。
私ってどうしてこんなに泣き虫なんだろう。知らなかった。
きっと子供の頃にしっかり泣いておかなかったから、一度溢れた感情涙を止める術を知らないんだ。

泣いているときって意味もなく、胸が締めつけられるみたいに苦しい。
私は先輩とかかわって、何度もそんな思いをしてる。
だから関わっちゃいけないと思うのに、少しは警戒していたはずなのに、
危険な感情は増すばかり。痛みさえそれを抑える理由にならないなんて。
それだけ私が恭弥先輩に惹かれているってことだ。

その背中を眺めながら、湧き上がるすべての感情は愛しさに変わる。

「恭弥先輩」

私は先輩の制服の裾を掴んで引き止めてから、言うべき言葉を考えた。
"ありがとうございます"はおかしい。
"好きです"とまで告げる勇気はなかった。

「私に手伝える仕事はありますか」


相変わらず世界は目隠しをしている。

そこで目隠しを持たない私は異端で、孤独だ。
けれど分かり合える人たちがいるから、私はひとりじゃなくて、
"違う"けれど何にも臆さない孤高の人が私を受け入れてくれるというなら、
そんな世界も悪くないと思えてしまう。


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