8.

瞼が重い。二日連続で泣き明かせば目が腫れないわけがなかった。
怪我もしていないのに流れる涙は、なかなか止まってくれないから困る。
きっと今日の私は多分最高に不細工な顔をしているだろう。

「約束の書類です」

雲雀先輩は私が渡した書類に目を通し、「完璧だね」と呟いた。
けれどあんな書類に、完璧も何もない。
しいていうなら“雲雀恭弥”という署名を丁寧に書いたことくらいか。

「ではこれで失礼します」と礼をして背を向けると、
唐突に後ろから先輩のこんな言葉が聞こえた。

「君は不思議だね。草食動物なのに孤独だ。咬み殺す気にもならないよ」

凛とした声の余韻を響かせて、私はゆっくりと言葉を反芻する。
すぐに、どういう意味ですか?と聞いてもよかったけど、沈黙を選んだ。

『君は不思議だね』は前も言われたことがある。
『草食動物』は、きっと群れをなす弱者の喩えだ。
群れをなさない私は『孤独』。
『咬み殺す』は、きっと草食動物と呼応していて、力でねじ伏せること。

『孤独』。その表現が胸に突き刺さった。
そうか私は『孤独』だったんだという納得でもある。

人との接触を恐れて距離を置く。
力の公開を恐れて自らについて語らない。
教室では人に“関わるな”と告げるバリアを作る。
当然、行動するのは一人だし、特に仲の良い友達もいない。

一般的な中学生としては浮いているのだろう。
けれど、自分が楽な道を自分で選んだように思っていたから、あまり自覚は無かった。

この力が好きになれないだけで他人が嫌いなわけじゃない。
だから、淋しい。

私はとても幸せな家庭に生まれた。
優しくて仲の良い両親、可愛いママと格好良いパパ。並木さん。
力を分かり合える人たち。

でも、きっとそれは傷口の舐め合いじゃないと言い切れなくて、
一歩外に出れば、私は間違いなく孤独だったんだ。
孤独、孤独、孤独。
それはただの中学生が背負うには、重すぎる響き。

「先輩は……っ、先輩も、孤独ですか?」

気付けば思考が吹っ飛んでいて、先輩にそう尋ねていた。
唐突な質問だけど、先輩は涼しい顔で「そうだろうね」と答えた。
その回答に頷く。
私たちの交流はとても簡潔で、傷の舐めあいとは無縁だな。と何気なく思った。

先輩は私と違って、望んで孤独でいるのだ。
先輩を見ていると、孤独が不幸だとは思えなくなる。
それに雲雀先輩は孤独というよりも孤高というほうがしっくりくる。

「先輩、また此処に来てもいいですか?」
「仕事があるときにね」

静かな肯定だった。
私は一昨日の、胸を締め付ける複雑な感情とか、泣き明かした夜とかを忘れて、
麗しいその横顔を見ることに嬉しさを感じていた。
そして調子に乗ってもう一つお願いをする。

「先輩、恭弥先輩って呼んでもいいですか?」
「……勝手にすれば」
「はい。ありがとうございます」

嬉しい回答ばかりで、顔が綻ぶ。
やっぱりこの人に近づきたいと願ってしまった。
「きょうやせんぱい」と心の中で十回くらい唱えた。

似てるからこそ理解できて、違うからこそ愛せる。
先輩といると、自分が特殊で異能だということを忘れそうになる。

私はもう一度「ありがとうございます」と言って応接室を出た。
心なしか、世界が明るく照らされている気がした。


通信簿が返ってきた。
評定には5が並んでいるのに、生活態度の『協調性』だけが抜けている。
とにかく、明日から夏休みだ。

隣の席では沢田君が「補修だ〜!」と落ち込んでいて、
近寄ってきた山本君が「俺も」と笑って、獄寺君が何故か悔しがってた。
相変わらず賑やかだ。

しばらく恭弥先輩に会えないのか、と思うと少し寂しいけど、
休みは休みの楽しみもある。
エリちゃんが遊びに来るし、並木さんと出かける約束もしてるし、家族でも出かける。
宿題はとっくに終わらせてあるから、実力テストの対策をするくらいだ。
といっても、この前のテストで獄寺君に負けたことが悔しかったから、頑張ろうと思う。

窓の外では蝉の声が響いていた。


帰り道で、あるものが目に付いて自転車を止めた。
それは交通事故の目撃者を捜す看板だった。
協力するかどうか一瞬迷うところだけど、その日は気分がよかった。
「大丈夫」と自分に言い聞かせて、看板に触れる。

視界が変わって、ぐらりとふらついたけど、その悲惨な光景を目に焼き付ける。
加害者の車のナンバー、顔、どちらに過失があったか。
不審なほど正確な情報提供だ。
すぐに110番を押して、自分の名前を聞かれた時点で電話を切る。

いいことをした、という実感はあるけど、
赤が飛び散った光景、手を伸ばしても届かない後悔が胸に疼く。
過去は、過ぎ去ってしまったから過去なのだ。
私に出来るのはそれを傍観して、現在に繋げることだけ。

再び自転車に乗って風を切る。
滲んだ脂汗はゆっくりと拭われていった。


「ただいま」
「おかえり、かえで」


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