1.私を取り巻くもの

階段を下りていると朝食の香りが届いた。
キッチンのパパに声を掛けると、「おはよう、かえで」といつもの笑顔が返ってきた。
玄関から新聞を取ってきて、株価の欄を眺めていると、ママも起きてきた。

「あろう君、かえで、おはよう」
「ママ おはよ」
「おはよう、かなで」

穏やかな朝の光景。
パパが準備するのを手伝って、食卓が始まる。

「ママ、お醤油取って」
「うん」

ママは隣に置いてあるお醤油の瓶を取って私に渡してくれようとした。
けれどその手が私の伸ばした指先に触れると、ママの時間が一瞬止まった。

(あ、“見て”る)

すぐにわかって、それが解けるのを見守る。
未来に迷い込んでしまったママに、パパは心配そうに声を掛けた。
ママはようやく我に返って、動悸の心臓を押さえながら「大丈夫」と言った。
その動揺ぶりから、良い未来ではないことが窺える。
私は恐る恐る、「何を見たの?」と訊いた。
ママは、それが精一杯というふうに答えた。

「うん、今日かえでは学校に行かない方が良いみたい」


私も含めて、我が家は少し特殊だ。

ママは他人に触ると、ときどきその人の未来を見る。
まるで、誰もが目隠しをしている国で一人だけ目隠しがズレてしまうように。

それに対してパパは、触ることで人の過去を見ることができる。
その力はママよりもずっと強くて、人だけでなく物にも適用される。
例えば誰かが必死で隠している過去でも、目を凝らせばどこまでも見えてしまう。
パパは目隠しをとうに失くしてしまった。

その二人から満遍なく力を受け継いだ私は、
ときどき突然に未来が見え、意識すればいつでも過去を見ることができる。

「学校に行くとどうなるの?」
「……車に、交差点で自転車ごと衝突して」
「交通事故……。じゃあ、歩いていけばいい?」
「ダメ!今日は休みなさい」

私はよっぽど大怪我をする予定らしく、滅多に怒らないママが声を荒げた。

「でもね、今日英語の小テストがあるの」
「そんなことよりも かえでが怪我しないこと方がずっと大切だよ」

そう言われると困ってしまう。
ママのいうことを信用していないわけでもないし、反抗期でもないのだけど、
わりと優等生な私にとって学校っていうのはそんなに気軽に休んでいいものじゃないし、
休んだところで今日一日をどう過ごせばいいのかわからない。
それに、事件は今朝起こるとも限らないのだ。今日休んでも暫く外出禁止になるかもしれない。

「うーん……でも、出来れば行きたいんだけど」
「わかった。じゃあ車で送っていくね」
「でもママ、今日はすっごく大事な打ち合わせがあるからって早めに出勤するんでしょ? 私を送ってたら確実に遅刻するよ」
「……あ」

ママは最寄駅から電車で通勤しているので、車を出すと二度手間になるのだ。
瞬時に顔を青くしたママの顔には「忘れてた」と書いてある。
その様子を見守っていたパパが申し出る。

「じゃあ俺が送っていこうか」
「パパは9時から料理教室でしょ」

パパは、家の近くの畑で野菜を育てつつ、定期的に料理教室を開いている。
この間本も出版して、結構売れている話題の人だ。
既婚とはいえ、娘の目から見ても格好良いから無理もない。

「いいよ、並木さんに迎えに来てもらうから。
こういうのは一番暇な人にお願いするもんだよ」

私はそれが最善の案だと思った。
案の定、電話をすると並木さんはすぐに来てくれた。
家の前に停められた赤いスポーツカーはいつ見ても格好良い。

「並木さん、本当にありがとう」
「かなでの頼みだからな」

ママがお礼を言い、並木さんはその端整な顔で微笑む。
パパもそうだけど、世の中にはこんなに『綺麗な男の人』って溢れていないと思う。
江沢君といい、私の知り合いの大人は見惚れたくなるほど格好良い人ばかりだ。
それがちょっと嬉しくて、微笑むと並木さんに「またかなでに似てきたな」と言われた。
私は基本的にパパ似なんだけど、笑うとママに似ているらしい。並木さんの贔屓目かもしれない。
並木さんはママのことが好きだから、これは褒め言葉だ。

玄関から出てきた、まだエプロン姿のパパは、
何故か並木さんにもお弁当を渡して、一言「頼む」と言った。
並木さんはそれを満足げに受け取り、私たちは車に乗り込んだ。


並木さんも私たちと同じ、『目隠し』を外せる人間だ。
完全に自分の意志で、2,3日先くらいまでの他人の未来を見ることが出来る。
その力を利用して株なんかで結構な額を稼いでいるらしく、
ママやパパよりも一つ年上だけどリッチな独身貴族をやっている。
私は自覚があるくらいに並木さんに懐いていて、
放課後は学校から近い並木さんのマンションに居座っていることが多い。


並木さんのように、ママやパパの高校生くらいからの知り合いはよく家に遊びに来る。
私の目から見て、周囲の大人たちは優しくて格好良くて憧れる存在だった。
同世代の友達といるよりも大人たちに混ぜてもらう方が居心地が良いと感じるくらいだ。
私たち能力を知って、受け入れていることも魅力だ。

そんな人たちと出会えたママやパパが正直羨ましくて堪らない。
特に、ママとパパが出会ったことは運命に違いなかった。

私にもそんな運命が巡ってくるだろうか?

見えないはずのものが、見えなくていいものが見えてしまう。
皆目隠しをしているのに自分だけ外れてしまう。
目隠しの国の中で異能であること。つまり孤独だ。
どうやって乗り越えればいいのだろう?
『同じ』はずのママとパパはキラキラと輝いているのに。


いつもよりも30分近く遅れて登校する。
けれど、いつもが早すぎるだけで、今日もギリギリ遅刻にはならなかった。
私は自分の席に座り、参考書と問題集を取り出した。
騒音の中で、日常が始まる。


けれど、私はもう巻き込まれていたんだ。


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