2.
普通の人間にとって、過去とは現在存在しないものだ。
本人さえ忘れた事柄、あえて掘り返さなければ無かったに等しい事柄さえある。
しかしかえでにとって、人は過去を持ち歩いているものらしい。
彼女は一冊の本を読むように、人や物の過去を読み取ることができる。
情報を取るのに脅しも暴力も見張りも詐欺もいらない。
触れるだけですべてを読み取ることができる。かえでの資質はそういうものだ。
わかっていて、これまで捕虜にも遺留品にも触らせなかった。
敵のアジトの過去を探りに行きたいと言われたときも、却下した。
その能力は彼女を幾度も苦しめ、蝕んできたから、脅しや暴力で済むのなら、彼女が触れる必要はない。
見なくていいものが見えないように、君の目隠しは僕がする。
かえでは僕に触れることでそれさえ見通しているのかもしれない。
直接手をくださず指示だけに留めたり、屍を投げやっても、死臭は消えない。
彼女に触れるには資格がいるが、僕はそれを強奪しているだけだ。
かえでは切り札などではない。
秘書として、妻として、ただそこにいればいい。
この戦いの間、疎開させることも考えたが、目を離した隙に攫われるよりいいと思って、半ば地下に閉じ込めるような形で手元に置いている。
門外顧問、風紀財団という独立した組織で、ボンゴレには不干渉を強いることができる。
誰よりも安全なはずの場所で、僕が彼女を守ったことなんて、一度もない。
あるときは自ら進んで、あるときは巻き込んで。危険な目にばかり遭っている。
そんなことはとっくに承知でついてきたのだと思うけれど、この道を選ばなければ、隣で悪夢に魘されているような夜は、少なくて済んだのかもしれない。
すでに破棄したボンゴレリングもかえでによっては禍々しい猛毒だった。そ
の記憶に、なお魘されることがあるのを知っている。見えない傷は癒えない傷だ。
馬鹿みたいに多くの葛藤を抱えている。
匣の解錠にリングが必要だとわかった今では、ボンゴレリングの破棄を望んだことさえも悔やんでいるらしい。
かえでは沢田綱吉と感性が似ており賛同していたとはいえ、彼が考えて最終的な決断を下したことだ。
因果関係を挙げだしたらきりがない。
「恭弥、匣に触らせて。製作過程を見てくるから」
「……できるの」
却下できなかったのは、ある意味では願ってもいない申し出だったからだ。
他のあらゆる情報源よりも遥かに有力な手段。視ればきっと何かを掴んでくるだろう。
並盛の被害は甚大だ。財団にも多くの死傷者が出ている。このまま壊滅するおそれさえある。
他に手の施しようがないところまできてしまった。
「やってみる。どこまで行けるかわからないけど、何度か潜ればちゃんと見られると思う」
安易に[大丈夫だ]とは言えないことを、彼女自身が誰よりもわかっている。
決して平気なわけではない。耐えられず、苦しむのだと、知っている。
触れるだけで緊張し、深く潜れば、帰ってこられなくなることもありうる。
いっそ安全な箱の中に閉じ込めておきたい。
自分の責任の及ぶ範囲だけ戦い、守られていればいいのに。
そう思うけれど、彼女が彼女らしくなければ、こうして傍においていたかわからない。
牙を持たない少女は何度も苦悩し、蹲って、泣いて、それでも立ち上がる。その強靭さは美しいと感じる。
手放すつもりはない。
同じベッドで眠り、手を握って、ただひたすらにかえでが帰り道を失わないように見守る。
「早く帰っておいで」と髪を撫でた。
かえでは僕の牙を削ぐ。
慣れ合いの温度を、失う怖さを思い知らせて、戦意を鈍らせることがある。
変わらされるのを厭って、甘やかすのを躊躇うことがある。
自分の身は自分で守れと突き放して、戦いの間くらい、意識の外に追いやりたいと願うことがある。
それでも、抱きしめた温度に安堵の息を吐けるのは、むしろ甘やかされているのかもしれない。