言葉は音になる

 ※本編の《if・もしも》として書いて頂いたお話です。

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 ああ、まただ。

 陽のあたる廊下、僕と目を合わせないようにか、
 俯くようにして歩き去っていく姿が目に留まる。
 人目を強く惹きつけるほどの強烈さはないが、どこか目を向けずにはいられない、
 不思議なほど浮世離れした空気を纏う彼女の名前は、内藤かえでというようだ。

 彼女の目をまっすぐに見たのは、
 思えば初めて顔を合わせた時が最初で最後であったように思う。
 そう、彼女が入学してからすぐ、
 家庭の事情で遅刻したという彼女の生徒手帳を受け取ったその瞬間。
 どこかこことは別の場所を見るような目をした彼女は、
 弾かれたようにその場を去って行った。

 あの目は、なんだったのだろう。
 あの時から僕の目に焼き付いて離れない。
 まるで、どこか恐れるように、触れるのを躊躇うように、
 けれど酷く大切なものを見るかのように、僕を見た。

 そしてそれから、彼女と目が合うことはない。
 うっすらと、見えない仕切りに仕切られたように。

「ねえ」

 気が付けば、振り向いていた。
 そうして、仕切りの向こう側にも届くように大きく、声をかけていた。

 内藤は、立ちどまった。
 振り向くのを躊躇うように、ぎこちなく首を回す。
 目は、合わない。
 綺麗に切られた前髪の向こう側に、隠れるように。
 何かを、隠すように。

 僕は苛立った。
 一歩進む。内藤は一歩後ろに下がった。

「君、この間から何?」

 返事はない。また一歩。ぬるい空気が、動く。
 僕は見えない仕切りがたわむ感触を確かに覚えた。
 そう、それはガラスじゃない。
 冷たい鉄でも、ない。
 こちらから歩み寄ってしまえば破れる、脆い布のような仕切りでしかないのだ。

 ごめんなさい、かすかな声。
 それはまるでただの音のように聞こえる。
 内藤はもう、走り出していた。
 風に揺れる仕切りが、遠くなる。

 後を追うように走った。
 どうしてこんなことをしているかなんて、分からない。
 ただ、あの瞬間。
 僕を見た彼女の目が、あまりにも優しく、美しかったのだ。

 僕は内藤の手を掴んだ。
 思い切り。
 その瞬間、内藤の身体が震えた、様な気がした。

「は、離して!」

 振り払われた手。
 自分を守るように抱えた腕は、僅かに赤くなっていた。
 内藤は、泣いていた。
 息が詰まる。
 ごめんなさい、もう一度謝る声が虚しく響く。
 どこかでカーテンが閉まる音がした。

 私には、と。
 内藤が何か言いかけて、やめる。
 その目は僕をまっすぐに見ていた。
 けれど、驚くほどに決意を湛えた、何かを諦めたような色をして、僕を鈍く包んでいた。

 失礼します。
 その声は音にしかならないまま、僕は仕切りの向こうの内藤を見送った。
 歩き去っていく後ろ姿が、遠い。

 いつしか仕切りは壁になっていた。
 冷たくて、壊れそうで壊れない壁。
 壊れてしまえば、破片が内藤へと突き刺さるであろう、するどい壁。
 何かを間違った。それだけは分かった。

 僕は内藤の腕の細さを思い出しながら、歯噛みする。
 この壁は内藤の内側にあるものだと、どこかで気がついていた。


 雲雀先輩は、冷たくて鋭い、けれどうつくしい人だ。
 他人を傷つけることに躊躇いはないけれど、
 きっと自分を傷つけることにも何も頓着しないのだろう。
 私は怖かった。踏み込んでしまえばきっと戻れない。
 私の目には、私のせいで傷つく雲雀先輩が見えている。

 そんなのは、嫌だ。




万華鏡存在証明、の柚茉ちゃんが書いてくれました!


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