妖、想う。


「坊!」

夏の長い一日が終わり、空が夕焼け色に染まり始めたころ、的場の部屋の窓を勢いよく開けた私は、的場の手を掴む。

それに眉をひそめて的場が言う。

「何事ですか。まだ暗くもないうちからここへ来るなど…」

誰に祓われるか、と言う言葉を飲み込んだ的場を気にすることなく、私は彼の腕を引いて縁側に続く障子を開ける。

「寒蝉の早鳴きだ!」

興奮して言う私を怪訝気に見つめてから、的場はああ、と頷く。

「寒蝉…ツクツク法師ですか。…たしかに例年よりも鳴きはじめが早いですね」

ツクツクボーシ、と夕方に響く声はどこか哀愁を感じさせる。
それはこの蝉が鳴きはじめるのが夏の終わりごろからだろうか。

しかし、今はまだ夏の終わりというには早すぎる。

「それがどうかしま…」

的場が言い終わる前に、私は彼を引っ張って外に出る。

「行くぞ!寒蝉の早鳴きの夜には良いものが見られる!」

「ちょ、待ちなさい、履物が…」

「そんなものいらん!早く行こう!」

的場の言葉を気にすることなく、ぐいぐいと手を引っ張って外へ出る。





「全く…。貴女はまったく変わりませんね」

諦めたようにため息をついた的場を振り返って私は笑う。

「何百年もの間、私は私だった。そうそう簡単に変わるはずがあるまい。坊はうつけだなぁ」

「うつけとは…。言ってくれるものです」

眉をしかめた的場にもう一度笑ってから、私は前を向いて走り出す。
的場のひんやりと冷たい手を握りながら。









「ここは…」

着いた場所は森の奥の池。


「ほら!綺麗だろう?」

両手を広げて私は池の前に立つ。

その後ろに飛ぶのは無数の仄かな灯り。

「寒蝉の早鳴きの夜には、蛍が日の入りと共に一斉に飛び立つのだ」

間に合ってよかった、と笑う私に的場はため息をつく。

「これのために、私を裸足で連れだしたのですか」

呆れたように座り込む的場の隣に私も座る。

「そうだ。綺麗だろう?」

ふふ、と笑った私を見てから的場は池に目を移す。

空には丁度星も輝きはじめていて。
その光が池に映りどこまでか星でどれが蛍か分からない幻想的な光の空間に的場は少し、笑った。

「…綺麗、ですね」









「明日…」

私が声を出すと、的場が静かにこちらを見つめる。

「新月の夜、私は夏目のもとへ向かう」

的場は表情を変えない。

「夏目は、私の友人だ。喰わせはしない。…しかし、御月神は、もう一人の、私だ。いくらお前といえども祓わせはしない」

その言葉に、的場はうっすらと笑みを浮かべる。

「なら、どうするつもりですか?祟り神は祓わなければ消えはしませんよ」

その言葉に、迷うことなく私はきっぱりと答える。


「私が、止める」



―…ドサッ


言葉を言った瞬間、私は地面に倒される。

倒れた私に覆いかぶさり、私の両腕を地面に縫いとめる的場が冷ややかな声を出す。

「あなたでは、今のあなたの力で奴を止めることは出来ない。わかってるはずだ」

「出来るよ、坊。あいつは私なんだから。わかってるだろう?」

互いの問答にしばしの沈黙が落ちる。


その静寂を的場の声が破る。

「神は…、消える時僅かでも未練があれば祟り神になる。僅かの未練もなく消えることのできる神がいると思いますか?…だから、土地を失った土地神は祓ってやるんですよ。そうすれば、祟り神になることはない」

的場が、僅かに顔を歪めながら言う。

それに、私は首を振る。

「だが、祓われたら私たちは昇華することが出来ない。祓われるのは苦しい。…風情がない。最後は美しい方が良いだろう?」

「ならば、私の式になれば…!」

私の言葉に被せるように的場が声をあげる。

「式になれば、消えはしない。力も戻る。私の式に、なれば…!」

的場の声が震えたように聞こえたのは気のせいだろうか。


「李葉、私の式に…!」


嗚呼、気のせいではなかったね。

上から落ちる水滴がつぅっと私の頬を伝って地面に沁みる。

「坊、坊。私は式にはならないよ。私は、高貴で、美しく、素晴らしい、山神なのだから」

覆いかぶさる的場の背中に腕をまわし、ぎゅうっと抱きしめる。

「懐かしい。昔、よく私の山に泣きにきていた坊をこうして抱いてやったな。…本当に、懐かしい」

彼が来なくなってからの時間など、私が生きてきた時間に比べれば、ほんの僅かのはずだった。

しかし、それが私には永遠とも思えるほど、長い、永い時間だったのだ。


「待っていたんだ。待っていたんだよ、坊。私はお前を待っていたから祟り神にならずにここまで消えることなく存在できた」


坊。

抱きしめていたお陰でお前に今の顔が見られずにすんだ。

今の私の顔はきっと、高貴なこの私には似合わず、美しくないだろうから。


「ずっと、逢いたかった」


蛍の池に、ほんわりと言葉が優しく灯った。



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