むっつ



「は、母様…」

少し震えた声で母を呼ぶと、母は不思議そうにこちらを見る。

「どうした、水姫。先ほどの話は水姫にはちと恐ろしかったかのう」

悪いことをした、というように母が顔をしかめるので、私は慌てて首を振った。

「いいえ!母様!怖くなどありません!むしろ…むしろ水姫はそのぬらりひょんという妖に興味が湧いてしまいました。かの妖は今はどこに…?」

そう言うと、母は珍しくきょとん、とした顔をした後、豪快に笑い出した。

「ははっはっはっ!そうかそうか、水姫は好奇心が強いからのう。そうか、興味を持ったか。
そうじゃのう、奴は…確か羽衣狐を倒した後は江戸に戻ったと聞いとるが…」

母はそう言ってしばらく考え込んだあと手をパンパンッと打った。

「河伯や、こちらに参れ」


母が言うと同時に、私が座っている前の湖の水が盛り上がり、河伯が姿を現した。

「なんでございましょう、タカオカミノカミ様」

「のう、おぬし。400年前の彼の妖ぬらりひょんが今何処におるかわかるかぇ?」


母が尋ねると、河伯は白く長い髭を撫でながら目を細めた。

「懐かしい名が出てきなさったのう。暫しお時間を下さればすぐに突き止めて見せましょう」

河伯はそう言うと、目を閉じて静かに水に手を着いた。

河伯は亀を使者としていて全国の亀から一瞬で情報を得ることが出来るのだ。

そしてほんの2、3分後河伯は目を開けて、するりと立ち上がった。

「タカオカミノカミ様。ぬらりひょんは今、関東平野にあります浮世絵町なるところに奴良組なる任侠一家を構えておりまする」


浮世絵町…
前世の東京にはない地名。
ほとんど似てるけど、やっぱりここは別世界なんだ…。

「か、河伯…、ぬらりひょんには、その…子や孫はいないの?」

羽衣狐との対決が約400年前ならば、今の私は主人公のあの子とほぼ同じ年齢のはず…。
そう思って聞くと、河伯は髭を撫でながら頷いた。

「おりますぞ。子はどうやら数年前に亡くなってしまったようだが、今は水姫様と同じ10になる孫がおるそうです」

同年代…!
まさかここまでぴったりとは…!

でも、それを聞いて決心がついた。


「母様!」

呼ぶと、母だけでなく河伯も私の方を見てきた。

「わ、私は…水姫は…浮世絵町の中学校に通いたいです!!」


瞬間、お祭り騒ぎだったその場が水をうったように静かになった。

誰も不用意に口を開けない、そんなピリピリとした空気が場を包み込む。




「水姫」

母が静かに口を開く。

「は、はい…」

私は恐る恐る返事を返した。

その直後


「あっはっはっは!よかろう、よかろう!行って来るが良い、浮世絵町に。そして会って来るといいぬらりひょんとその孫に」


「…えっ?」


てっきり反対されるものだと思ってた私はぽかんと口を開ける。


いや、反対されると思った私の予想は外れたわけではなかった。現に周りの精霊達は口々に母の言葉に反対の意をとなえている。


「タカオカミノカミ様!水姫様にそんな遠いところに行かせるなぞ…!」

「そうですぞ!我らの大切な姫様、何かあった後では遅いのですぞ!」

「浮世絵町は妖の多い町と聞いております。いや、この貴船から出れば妖ばかりでしょう!姫様に万一のことがあったら…」


「お黙り」


母の凄みのある一言でまた場は一瞬で静かになった。

「確かにまだ10の水姫を外に出すのは危険じゃ。力の使い方も霊力の抑え方もまだ未熟じゃからな。強い霊力には妖がよって来る。だからこそ、中学に行くまでの2年間みっちりと水姫を鍛えねばならんの。その覚悟が水姫にあって、それでも行きたいというなら我は…母は止めはせん」


母の言葉は透き通るように場に染み渡る。


「可愛い子には旅をさせろというではないか。水姫が行きたいと言い、それが意義あることならば止める理由などないはず。下界に降りて人と共に暮らしてみることは実に有意義じゃ。…我も昔はよく人と交わったものよ」


懐かしそうに目を細める横で河伯も笑いながら言う。


「そうじゃったのう。昔はよくタカオカミノカミ様がいなくなられたと、この貴船、上から下まで大騒ぎしたものよ。…それに、神の子が人の学校に通うことは別段珍しくはありませんぞ。白神の子も駒岳のわんぱく坊主も通ったとか。姫様が行くのに何ら問題はありませぬぞ」


「母様…。河伯…」

賛成してくれる2人の言葉が嬉しくて、若干感動して呟くと、母が楽しそうな顔で私に言い放つ。


「しかし、水姫。先ほども申したとおり修業は白馬と黒馬にみっちり鍛えてもらうのだぞ。良いな」


げっ…!
白馬と黒馬に!?

い、嫌だけど背に腹は変えられない。


「わ、分かりました、母様」

頷いた私に母は満足そうににんまりと笑ったのだった。





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