みっつ
神馬に乗って約半刻。
貴船の麓についた私達は、賑やかな京都の町とは反対側から山を登る。
裏側は人の気配もなく、ひんやりとした空気に包まれている。
しばらくいくと、小さな鳥居が見えた。
そこで私は犬神を止める。
「ここから神域になるの。私たちは問題ないけれど、あなたを入れるには少し手順がいるのよね」
私の言葉に、黒馬がからかうように笑う。
「水姫様はきちんと唄を覚えておいでですか?確か、昔に教えはしましたが一度も使ったことはないでしょう?」
その言葉に私はふんっと鼻を鳴らす。
「黒馬ったら本当に失礼。小さい頃はあの唄を唄ってよく遊んでいたんだから」
そう言って私は鳥居の前で小さく息を吐いて唄いだす。
「てんてん手毬の音がする
今日も聞こえぬ水の音
手毬をついて雨が欲しいと泣いている」
その様子を犬神は首を傾げて見ていたが、しばらくして鳥居の奥から姿は見えぬが声だけが返って来る。
『雨が欲しけりゃ泣かせておくれ』
高くもなく低くもなく。子供のようで老婆のような。不思議な声が響く。
それに驚くこともせずに、私は唄を返す。
「そうだ、竜神はんを怒らせよう
大切な竜玉盗んでこよう
さすれば困って泣くぞ ざあざあ篠突く大雨が」
『さほどのことでは泣きはせぬ』
「そうだ、竜神はんを悲しませよう
しとしと降るぞ涙雨
手毬を持って滝から身投げした」
『てんてん手毬唄が聞こえへん
悲しくなってしとしと泣いた
雨が降ったぞ 嬉しかろう
てんてん手毬を唄うておくれ』
「てんてん手毬唄はもう聞こえへん」
そう唄った瞬間、さぁっと雲もないのに雨が一瞬降った。
霧雨のような細かい雨で、僅かに濡れる。
「こりゃなんだぁ?」
首を傾げる犬神に今の唄の意味を教えてやる。
「神域に入るための合言葉みたいなものね。もともとは雨乞いの唄で、雨を降らせられるように上手く唄えば神族や精霊でなくとも入れるようになるの。他の妖怪には秘密よ」
その雨が上がり、もう一度鳥居に目を移すと、そこには一匹の手足のある大蛇のような妖怪。
「蚊(ミズチ)!」
蚊は、竜の一種であるが、貴船では門番を務めてくれている。
「お久しぶりどす、水姫様。よう戻ってこられはりましたなぁ」
嬉しそうに舌をちろちろと見せる蚊の喉元をさすってやると気持ちよさそうに目を細めた。
「早速なんだけど、母様に会えるかしら?」
聞くと、蚊は頷く。
「水姫様が戻って来やはるというのを聞いて、張り切っております」
その言葉に私は苦笑する。
「今、六月でしょ?水無月の祓えが近いから忙しいんじゃないの?」
水無月の祓えとは、夏越の祓と言われ、一年の中でも大きな行事の一つだ。
しかし、それに蚊は笑う。
「水無月の祓えで忙しいのは人間達でありますので、問題はおまへん。それよりも水姫様のご帰還に皆おおわらわどすよ。そないなら、行きましょう」
ちろっと舌を覗かせながら四つの足でするすると登っていく蚊を、私たちは追いかけたのだった。
「ここまで、する…?」
奥の湖に付けば、そこは宴会の場となっていた。
様々な精霊達が既に酒を呑み交わし、えんやわんやの大宴。
普段は静かな聖域の面影が全くない。
その中心に、母様を見つけて、私は駆け寄る。
「母様!!」
言うと、母様はこっちを見て両腕を広げて私を抱く。
「よう帰った!元気そうで何よりじゃ!」
「はい!母様も!」
久しぶりに会った母様はやっぱり凄く綺麗で。
上でまとめられ、余った髪がゆるやかに垂れ、艶やかに黒く輝いていた。
両腕のぬくもりもとても懐かしく感じて私はほっとする。
「あ、そうでした。母様。実は折りいってお願いがありまして…」
そう言いかけた私の言葉を止めるように母様は首を振る。
「白馬達から聞いておる。なんでも、犬神おとしをしたいとか。…で、そやつはどこに?」
言われて犬神の姿を探せば、宴会の外で戸惑ったように佇む犬神を見つけた。
「犬神!こっちに」
手を振って呼べば、恐る恐る近づいてくる犬神。
「母様。彼が犬神です。犬神、こちらが貴船の龍神タカオカミノカミ様」
双方を紹介すると、犬神は黙ったままお辞儀をする。
そんな犬神に母様は声をかける。
「犬神とやら」
言った瞬間、その場がしんと鎮まる。
「なるほど。妖気を感じる。水姫の力で隠されてはいるが。…犬神憑きらしいのう」
聞かれて犬神は頷く。
「あれは人間の呪詛。…恨み、憎み、嫉み。まっこと醜いのう。そなたに憑いている犬神は人間が作り出したもの。身から出た錆、というところか」
「っ、母様!」
母様の言葉に思わず私は口を挟むが、母様は気にせず続ける。
「しかし、遥か昔の先祖の罪で関係のない子孫が苦しむというのも哀れな話よ。…丁度今月は水無月。水の力の増す月。犬神も落とせるじゃろう」
そう言って母様は目を閉じる。
「しかし、ほんに、悲しく、哀れじゃ。そなたも…そなたに憑いている犬神も」
その言葉に、犬神がぴくりと反応する。
「我には犬神の声が聞こえる。憎い、哀しい、…愛おしい、と」
母様の言葉に私もはっとする。
「犬神は、お前を愛しておる。…それでも、落とすかえ?」
母様は静かに犬神に問うた。
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