ひとつ


梅雨に入る前の静かな夜。

夏に鳴く虫の声も、しとしとと降る雨音もしない、この時期だけの静けさを私は気に入っていた。


「水姫様。いくら5月でもまだ夜は冷えます。どうぞ打掛を」

縁側で月をぼんやりと仰ぎみていると、白馬が夜着の上に上着をそっと掛けてくれた。

「ありがとう。…ねぇ、白馬」

そのまま立ち去ろうとしない白馬を見上げると、白馬はしっかりと目を合わせてくれる。


「私は…必要とされているのかな」


私が知っている“牛鬼編”は終わった。

私がしたことはあまりに些細で、そして物語が変わることもなかった。

結局、物語は物語として筋書き通り進んでいくのだろうか。

ならば、私が何かをすることに意味はあるのだろうか。


細く漏れた呟きはするりと闇に溶けて消えたが、白馬の耳には届いていたらしく、困惑した雰囲気が伝わってくる。

「ごめん。白馬にそんなこと聞いてもどうしようもないよね」


私はあくまで物語の傍観者。

その分を弁えずに何かを為そうと思うこと自体が間違いなのだ。

ならば、なぜこの世界に生まれ変わってしまったのだろう。

彼らを知らずさえいれば、こんなにも切なくなることはなかっただろうに。


「水姫様。私にはよく分かりませんが、少なくとも貴船には姫様が必要です。それだけでは、駄目ですか?」

眉尻を下げて言う白馬の言葉に私は俯く。

「…ごめん。ちょっと、外、出てくるね」

そう言って私は立ちあがった。







振り返らずに鳥居の外に出れば、もわっと濃い空気に体が包まれる。

それさえも心煩わしく、私は上に羽織った打掛を前に掻き合わせて、何処というあてもなく夜の街を歩いたのだった。




「―…!」

ふと、頭上から声が聞こえた気がして仰ぎ見る。

と、次の瞬間視界が黒く染まった。

一瞬遅れてドンっと鈍い衝撃が走り、思わず倒れる。

「いたぁ…」

地面にもろにぶつけた頭をさすりながら何が起こったのか身を起して見渡せば、自分の体の上にあり得ないものを見つけて顔がひきつる。

「は?あれ?鴉天狗…?」

夢かと思って目をこするが、自分の体の上で倒れているのは紛れもなく鴉天狗三兄弟の一番上、黒羽丸で。


「ちょっ、あの、大丈夫…」

言いかけて、はっと口を噤む。

いつの間にか自分の夜着は赤黒く染まっていて、それが黒羽丸の血だと気づくまでに時間はかからなかった。


「…ギャア!……」

再び頭上から聞こえた声にいち早く反応したのは血を流している黒羽丸だった。

だいぶ深い傷を負っているのだろう。私にも気付かずに羽を広げて飛び立とうとするが、その動きが傷に障ったのかうめき声を上げて再び膝をついてしまう。


その様子を見ていられずに私は黒羽丸の肩に手を掛けて…

一気に押し倒した。

決して変な意味じゃない。

けど、驚いたように目を見開いて見つめてくる黒羽丸を見ていると変な気を起こしそうだ。

何てことを言っている場合ではない。

頭上の声は確実に近付いていて、黒羽丸を押し倒した時にはすでにほぼ真上からその声は聞こえていた。


「“水かげろう”」

呟くと同時に薄い水の膜が私の周りを包む。

勿論、私の下にいる黒羽丸も包み込まれる。


そうして息をひそめていると、すぐ近くに人の倍近くはありそうな真っ黒い怪鳥が降りてきた。

不気味な声で鳴きながら何かを探しまわるように辺りを突っつきまわしていたが、水の膜で覆ったこちらには気付かずに、また飛び去ってしまった。


「あれは…以津真天…?」


葬式の際、遺体を遺族が放っておくと遺体の口から邪気が生まれ出る。

それが妖怪と化したものが以津真天だ。

戦乱の世に多く跋扈していたが、最近では滅多に聞かなくなった妖だったはずだが。



なんて考えにふけっていると、下から困惑したような声がした。


「悪いが…どいてもらえないか?」


あ。黒羽丸を押し倒してたんだった。


…。

なんか美味しいな。この体勢。




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