よっつ


「な、なんだ…!お前は…!」

馬頭丸がわたわたと慌てながら問う。

牛頭丸はただ“それ”を睨みつける。

“それ”は妖怪の住まうこの山においても、ただ異形だった。

恐ろしいほど静かで、畏ろしいほど澄み切った“それ”は馬頭丸の問いに答えることなく、ただ白い面をこちらに向けて佇んでいた。

牛頭丸はチャキッと腰の刀を僅かに抜く。

その手のひらには尋常でない手汗がにじんでいた。
いや、手汗だけでない。

ドクッドクッと全身が脈を打っているのではないかと錯覚するほどに心臓は激しく脈打ち、額を暑くもないのに汗が滑り落ちる。


(やばいやばいやばい)


全身が警鐘を鳴らすのを無視して、牛頭丸はふっと息を溜めると、一気に抜刀して“それ”に切りかかった。


―ぴちゃんっ


確かに袈裟切りにしたはずなのに、手ごたえはまるで感じられない。

「はぁっ…!はぁっ…!」

たいして動いてないはずなのに牛頭丸は息を切らしながら目の前のそれを見つめる。

否、見つめることしかできなかった。

表情の窺えない白い面に開いた穴の奥から自分を見下ろすその静かな瞳から牛頭丸は捕らえられたかのように視線を逸らすことができなかった。


「何を、そんなに畏れる?」

“それ”が発した言の葉は、水の上に広がる波紋のように心に沁みわたった。

(やめろやめろやめろ!話すな!消えろ!消えてくれ!)

妖怪であるはずの自分が思わず縋りつきたくなるようなその声色に、牛頭丸はただ目を見開いたまま頭の中で必死に拒絶することしかできなかった。


「ご、牛頭…!」

馬頭丸が頭を抱えながら牛頭丸を呼ぶ。

その声ではっと我に返った牛頭丸はばっと“それ”から離れて馬頭丸の横に逃げる。

「大丈夫か、馬頭丸」

“それ”から目を逸らさないまま牛頭丸は馬頭丸に問いかける。

「なんとか…。それより、なんだよ、あれ!どうして…!」

馬頭丸が声を詰まらせる。

「どうして…!こんなに畏ろしいんだよ!?」


声が、目が、存在が。

全てが自分を押し潰すかのように、それでいて優しく包み込むような。矛盾した“それ”はただ畏ろしかった。


「牛頭、馬頭」

どうして、どうして

“あれ”が自分達の名を知っている。

「可愛げのある悪戯も、ほどほどにしなければ…傷つくことになる。自分自身も。そして大切な者も」


うるさいうるさいうるさい。

お前に何が分かる…!こんな選択しかできなかった牛鬼様の何が…!


「殺すな。誰も。傷つけるな。己自身も」


「…るさい…!うるさいうるさい!何なんだ!お前は!邪魔をするなら殺してやる!」


訳の分からない存在からの忠告が胸をざわつかせる。

これ以上、耳を傾けてはいけない。
さもなければ、心が折れる…!

はぁっ!と声をあげながら牛頭丸は再び“それ”に切りかかった。



「確かに、忠告をした。少しでも心に留めてもらえると良いのだが…」

ふぅっと微かに風が牛頭丸の頬を撫でて、“それ”は消えた。

憂いのこもった呟きを残して。






「ご、牛頭丸…」

おずおずと馬頭丸は動きの止まったままの牛頭丸を呼ぶ。

もう“あれ”はいない。

風のように消えた。

ついさっきのことだったのに、今では朧げであの存在との邂逅は夢だったような気さえする。

「牛頭丸…!どうする!?」

ただ、確かに“それ”がいた証拠のように揺れる木の葉を視界に捉えながら、相棒に問いかける。

「…。どうもしないさ。計画通りだ。どうせ、誰にも止められやしない。俺達はただ牛鬼様のために…!」


喉の奥から絞り出すように呟かれたその言葉に、馬頭丸は不安そうに顔を曇らせたのだった。




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