むっつ


「これ。そこにいるのは誰じゃ」

凛と空気が揺れた。

冷気が肌に突き刺さって、次いで白い砂利を踏みしめる音が遅れて聞こえた。

先に反応したのは大闇毘古だった。
彼は地面に片膝をついて頭を下げた。

「お休みのところ失礼いたします。禍津日神が一子、大闇毘古が私情により大物忌様に御目通り叶いたくやって参りました」

「ああ、禍津日の…。よう来た」

男とも女とも判断がつかない低めの透き通った声がする方には白い靄がかかっており、大物忌神の姿は見えない。
それでも、確かにそこにいる大きな存在を感じて、私は小さく震えた。

「それはそなたの客か?」

それでようやく私に気付いたのか大物忌神が尋ねる。

「はい。この者のことで相談したい議がございます」

大闇毘古の言葉に、少しの沈黙のあと再び砂利を踏む音がした。

「大儀ない。ついてまいれ。宮で聞こう」

「かたじけなく存じます」

ゆっくりと立ち上がった大闇毘古がそっと耳打ちをする。

「大物忌様は天照大神様に直接使えるお方。くれぐれも粗相のないよう」

私は緊張しながらも頷きかけて、ふと首を傾げた。

「あなたも今年十三なのでしょう?…随分と立派な神の振る舞いに見えるわ」

とても同い年とは思えなかった。
思わずそう呟くと、大闇毘古は呆れたように眉を下げた。

「…今言うことだろうか」

「ごめんなさい」

自分でも場をわきまえていない自覚はあったから私は首をすくめて素直に謝った。

そんな水姫になんとも言えないような、少し何かを伝えたいような微妙な表情をしてから大闇毘古は首を振った。

「まぁ…、私にもいろいろと事情が…いや。終わってから話そう」


大闇毘古の言葉に今度こそ頷いて、遅れないように大物忌神の後ろをついていったのだった。





宮の中で座る大物忌神の周りには、やはり白い靄が漂っており、そこだけ世界が違うように見えた。
儚げな容姿の美しい女性の姿をしているせいか、よけいに幻を見ているようだった。

ゆったりとした着物の袖で遊びながら、大物忌神は大闇毘古に問いかける。

「…禍津日神はご健在か?」

「おかげさまで。今は高天原にて静養しております」

大闇毘古の言葉に頷いて、大物忌神は私を見遣る。

「して、此度はどのような議じゃ?本来、この宮に取り次ぎなしでやってくるとは罪に問われてもおかしくないことは存じておろう。そなただからこそ、騒ぎにはならなかったのだぞ」

大物忌神の言葉に、大闇毘古は座ったまま深く頭を下げた。

「ご無礼のほど、深くお詫びいたします。しかし、この者の穢れがあまりにもひどく。白兎どもでは対処しきれず、取り急ぎ大物忌様のご意見を頂戴したく参上しました」

大闇毘古の隣で私も同じように深く頭を下げる。

「…ふむ。確かに、まだ幼い身にはふさわしくない穢れの匂いがするのう。黄泉の物に触れたか」

そう言った大物忌神に頷く。

「黄泉より蘇りし亡者に触られました」

私の答えに大物忌神は眉をひそめる。

「黄泉より?おかしいな。イザナミ様はご自分の物は絶対に手放さぬはず。あのお方は執念深い。…ああ、それでお前が遣わされたのか?」

話を振られて大闇毘古は微笑む。

「仰る通り、イザナミ様はご自分のものに執着を持たれます。しかし、いたずらに禍いが撒き散らされることにも心を痛めております。今はこの数珠にて押さえているようですが、この穢れ、放っておけば広まるやもしれませぬ」

水姫の手首の数珠をちらりと見やって、大物忌神は小さく首を傾げた。

「それは“黄泉路”か。…確か、それはスサノオ様の神器のひとつ。お前、スサノオ様に?」

「熊野にてお会いしました」

「ほう。それは珍しい。あのお方は各地の黄泉比良坂を巡っているため、滅多にお会いになれぬが」

少しだけ考え込んで、それから小さく頭を振った。

「まあ、いい。スサノオ様の神器があるならば、それ以上のことは出来ぬ」

にべも無い大物忌神様の言葉に、少なからず落胆した私をちらりと横目で見て、大闇毘古が口を挟む。

「大物忌神様。恐れながら申し上げます。確かに尋常でしたらそのままでも構わなかったのですが、先ほど彼女は白兎より禊を受けました。それにより、スサノオ様の神器ですらも今は拒否反応を起こしております。このままでは…」

大闇毘古の言葉に、大物忌神様は僅かに眉をしかめる。

「ふむ。なるほど。…ならば」

初めて彼女はまっすぐに私を見据えた。


「そなた、黄泉へ行くがいい」


その瞳はどこまでも澄みきっていて、恐れを抱くほど静かだった。
まるで、何人たりとも彼女の気持ちを動かせるものはいないかのような、孤独と、絶望を垣間見た気がした。



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