やっつ



「凌雲老師。あまり軽々しくその名を出さないように。“やつ”に気付かれます」

しばらく、動かなかった空気を切り裂いたのはまたもや奴良組の屋敷から現れた窮奇さんだった。

「はは。相変わらず神経質だな、お前は。海を越えてまで奴はやってこまい」

「それにしてもです。用心を怠ることはできませんよ。それに、いつまで人様の家の前でしゃべっているのですか。ご迷惑です」

窮奇さんが言うと、その後ろからリクオもやってきて首を動かして、私達を中へ促す。

「全員、中へ入りな。一応、こいつらがここにいる間はうちで面倒を見ることになった。何やら込み入った事情みてぇだが、こんなとこで話していても埒が明かねぇだろう」

「謝謝。確かにここで話しても仕方ないね。おいで、幼雲」

凌雲さんが笑いながら、座り込む獏に手を差し出すが、それを獏は叩いて自分で少しよろけながら立ち上がった。

「水姫も入んな。久しぶりに、組の皆にも顔を出してやってくれ」

リクオの言葉に甘えて、私も頷く。

獏と凌雲さんの関係。
饕餮という存在。

まだ、何も分からない。

知りたい。いや、知らなければ。

獏のことを。






「まあ!あなたが水姫ちゃんね!」

奴良組の屋敷に入って、すぐに若菜さんの明るい笑顔にもてなされた。

「リクオからお話は聞いてるわ!いつもリクオがお世話になってるみたいで。今からお夜食出すからゆっくりしていってね!」

「え、いや、お構いなく…!」

そんな私の言葉はスルーされて、若菜さんは嬉しそうにぱたぱたと台所にひっこんでしまった。

それからすぐに、奴良組の面々に囲まれてひとしきり騒ぎに巻き込まれて、我に返った時には獏の姿も、凌雲さんの姿も消えていた。


「え、えーっと…」

困った…。
奴良組の屋敷にはまだ一回しか来たことがないし、広いから二人がどこに行ったのかも分からない。

「よう」

そんな私に声をかけたのは、外の枝垂れ桜の枝に座っているリクオだった。


「リクオ…」

そう言えば、リクオはずっと不機嫌だ。
今日、ようやく浮世絵町に帰ってきてからの初めての顔合わせだというのに。

京都の夜のことが幻だったのではないかと思うほどに、リクオの態度はつっけんどんだった。

「リクオ、あの、ごめん…?」

とりあえず謝ってみれば、リクオは夜の月に向かって煙管の煙をふかす。

「なんでだ?」

「え?」

唐突な質問に、何を聞かれているか分からず首を傾げると、リクオは月を眺めながら言う。

「オレはそんなに頼りないかい?」

「リクオ…?」

「どんな相手だろうと、オレは負けねぇ。負けられねえよ。この命に、自分の命よりも大切なモン背負っちまったんだからよ。なのに、お前はいつも自分で解決しようとしちまう」

「…」

「確かに、白澤を相手にするのは今のオレじゃあ危険だったかもしんねぇ。それがお前ぇに分かってたってんなら、なんで一緒に闘おうとしてくれなかった?」

「リクオ…。ごめん」

今度のはとりあえずじゃなかった。

何に対して謝るべきなのか、伝わった。

「ごめん。私は、恐れていたのかもしれない。母様をなくして、これ以上自分の目の前で大切な人を失うのが、怖かった」

黒羽丸が倒れたとき、心臓が締め付けられるような吐き気に襲われた。
また、自分の前で、大切な人が倒れていく…

「信じていないなんてそんなことはなかったの。ただ、あのとき私は…」

私は、誰も傷ついてほしくなくて…
ただ、ただ恐れていた。

京都の件で、大切な人を自分で守りたいという想いが強くなったと思ったけど、その想いが恐れに変わった瞬間から

「私は、前より弱くなってしまったのだろうか」

今も、獏を失うことに恐怖を抱いている。

たとえ、命を落とす意味でないにしろ、自分の周りから大切な人が消えることが…怖い。

怖い。
怖いの。

ああ、だからか。

こんなにも、すぐ泣くようになってしまったのは。

頬を流れる涙に、私はぼんやりと思った。

「私は…弱くなったんだな」

呟いたときだった。

ふわり。

暖かいものに包まれた。

「リ、クオ…」

「悪い」

黒い羽織が風に煽られて、ぼんやりとかすんだ視界ではためいた。

羽織に描かれた『畏』の代紋がやけにはっきり見えた。

「泣かすつもりじゃあなかった。だけど」

リクオが私の頬に流れる涙を優しく拭う。

「オレには全然そう見えないが、弱くなったってんなら心配いらねえよ」

拭った後に残った涙の筋に、柔らかなぬくもりを感じた。

「オレが一生、守ってやっからよ」


頬に口づけされたことに気付いて慌てて離れたのは、リクオの言葉が心に沁みわたったあとだった。




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