むっつ
「水姫!」
水鳥を飛ばしてから少しも経たないうちに聞こえてきた声に、私は苦笑をもらす。
「獏、はやいね」
走ってきた様子の獏は、私のもとまで来ると溜息をついて奴良組の門にもたれかかる。
「頼むから、勝手に危険なところに突っ込んでいくなと、前にも言ったはずだが」
突き放すようでありながら、明らかに慌てて探し回っていたと思えるような汗を見て私はまた笑いをこぼす。
すると、じろりと睨まれたので慌てて謝る。
「ごめんごめん。心配かけさせちゃったみたいだね」
言えば、獏はふんっと鼻をならす。
「だから、言ってるだろう。神使にとって、自分の主が傷つくのは最大の屈辱なんだと。俺の知らないところで危険なことに巻き込まれるな」
「はは、その台詞は久々に聞いたよ」
「だから、笑うなと…。…はぁ、それよりお前、その匂い…」
獏が眉間に皺を寄せながら私の腕を引っ張って近くに引き寄せようとしたときだった。
「おや。やはりお前だったか」
「…っ、!?」
突然獏の背後から聞こえた声に、獏が肩を震わせて、私を抱えて飛び退った。
「…、なんで、あんたが…」
久しぶりに見た、本気で驚いた獏の顔。
その視線の先には…。
「凌雲、さん?」
奴良組の門のところでにこにこと笑っている凌雲さんが立っていた。
「水姫、なんであいつのことを知っている…?」
肩を抱いている獏の手に力が入って、私は思わず顔をしかめる。
「獏、痛い…」
「どういうことだ。なんで…、そうか。お前を連れて行ったというのはあんたのことか。水姫に、何をした」
まるで、私の言葉が届いていない獏に、私は呆気にとられる。
こんな獏を今まで見たことがない。
対して、凌雲さんは笑顔を崩さない。
「何もしてないさ。ただお茶をしただけだよ。それに」
凌雲さんがすうっと目を細めた。
「それを言うなら、お前こそ何をしているんだい?お嬢ちゃんが痛がってるのが見えないのかな?幼雲」
「幼、雲…?」
その言葉に、はっと獏が私を見降ろして手を離す。
「水姫、」
何か言おうとしながら言葉が出ない様子の獏に、凌雲さんがゆっくりと近づいてくる。
その足元でじゃり、と砂が鳴る。
「やはり、お前は何も成長してないね。儂を見ると、我を忘れてしまうか?ここ四百年、顔を見せないと思ったらこんなところで何をしているんだい?」
「…っ、来るな!」
じり、と後ずさる獏の言葉などどこ吹く風で、凌雲さんは足を止めることはない。
「まだ四百年前のことを引きずっているのか?だからお前は未熟なのだよ」
「黙れ、あんたがその話をするな…!」
「あんた、なんて偉大なる兄に言う言葉ではないだろう?」
兄…?
獏が、凌雲さんが言っていた弟の、幼雲…?
状況が分からない。
そうだ。そもそも、獏から自分のことを聞いたことはあまりなかった。
だから、分からなくて当たり前だし、私が口を挟むことではないかもしれない。
それでも。
「凌雲さん。止まってください」
私は、凌雲さんの前に立った。
「水姫…、やめろ…」
それを、何かを恐れるように後ろで獏が言う。
その声が震えていた。
「夜護ちゃん。キミには関係のないことだよ」
そう言う凌雲さんを、私はきっと見上げる。
「関係なくはありません。獏は、私の神使です」
一瞬、沈黙が降りた。
「…獏?…神使?」
凌雲さんが目を見開いて、獏を見つめる。
後ろでどさっと獏が地に膝をついた音がした。
次の瞬間。
「くく…、はっはは、あははは!」
凌雲さんが然も可笑しいというように笑い出した。
「な、何を…」
戸惑う私に、凌雲さんは笑いすぎて溜まった涙を拭いながら答える。
「お前、まだ獏を名乗っていたのか。しかも、神使だと?お前、この小さな神様に何も明かしていないのだな?」
「やめてくれ…、言うな…!」
「獏…?」
獏の制止も構わず、凌雲は続ける。
「夜護ちゃん。幼雲はね、我が父、初代白澤と女道士の間に出来た半妖なのだよ。それも、なりそこないのね。それが神使を名乗ろうなど、可笑しな話だと思わないかい?」
「獏が、半妖…?」
思わず振り返った獏は、首を垂れていて、その表情を窺うことは出来なかった。
[ 175/193 ][*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]