とあまりここのつ
「母、様…?」
月の映る池の上に浮かんでいるその姿に、私は目を見開いた。
「っ、…」
本当に驚いたときというのは声が出てこないらしい。
ごめんなさい、とか、ありがとう、とかもう大丈夫なのかとか言いたいことはいっぱいあったのに何一つ言葉が出てこなかった。
代わりになんとも言えない感情があふれてきてそれが目から溢れて涙となってこぼれていった。
「こらこら。一柱の神様がそんな簡単に泣くんじゃないよ」
苦笑している母様の顔がぼやけてよく見えない。
ただ、やっぱり私にはまだまだ親離れは無理そうだな、なんてどうでもいいことだけがぼんやりと頭を巡っていたのだった。
「落ち着いたかい?」
母様の言葉に、私は鼻をすすりながら頷く。
「すいません。あの、それより母様はもう大丈夫なんですか?」
ようやく言えた問いに、母様は笑って首をすくめる。
「悪いが、水姫。これは我ではないのだよ」
「は…?」
何を言われているのか理解できずに首をかしげると、母様が手を伸ばしてくる。
「触ってごらん」
言われて、母様の手を取ろうとして…
「あ…」
私の手が虚しく宙を掻いた。
「分かったかい?この姿は実体ではない。そして今眠っている我の精神でもない。“ここ”に残していったただの残滓なんだよ」
「残、滓…」
言われてみれば、母様のその姿は向こう側が透けて見えている。
「では、いずれは…消えてしまうのですか…?」
残滓でもよかった。
私にとって、何百年も母と会えない時間はあまりにも辛かった。
そう顔を歪めた私に母様は苦笑する。
「まったく。仕方のない子だね。大丈夫。消えはしないよ。お前が魂振りを成功させればね。お前の力で我は龍穴に存在し続けられる」
「本当ですか!?」
「ああ」
私の言葉に、母様は柔らかく笑んだ。
「さぁ。では早速魂振りの仕方を教えよう。…そのあと、ゆっくりお前の話を聞かせておくれ。朔夜が終わるまでは、我は確かにお前の母親なのだから」
―龍穴に身をゆだね
―龍脈を感じてごらん
―龍脈から山が見えるだろう?
―それはとても不思議な光景だ
―幾百、幾万とはりめぐされた龍脈から一斉に情報が流れ込んでくるんだ
―澱んでいるところが分かるかい?
―力が弱まってるところが分かるかい?
私は着物を脱いで、下の白装束のみで龍穴である池に身を沈めた。
一般に禊と言われるときのための装いだ。
目を閉じながら母様の声に耳を傾ける。
そこは本当に不思議なところだった。
どこまでも蒼く。そして暖かい。
まるで自分が水に溶けていくようだった。
そこから幾筋もの龍穴に感覚が流れていく。
とても、気持ちが良かった。
あ、あんなところで鹿が死んでいる。
恐らく山犬に喰われたのだろう。
これは生命の営みであるから、それ自体には問題はないのだけど食べ残された鹿の死体から澱みが生じ、龍脈が滞っているのが手に取るように分かった。
その部分を浄化し、また同じように何かしらの影響で龍脈の力が弱まっているところに力を注いでやる。
そして、澱みが消えていくたびに自分の中で例えられないほどの充実感に包まれるのがこの上なく心地よかった。
「よくやった」
母様の声で、意識が急速に覚醒していく。
「終わり、ですか?」
池から顔を出すと、その上で母様が頷いた。
「ああ。山が生命の喜びに満ち溢れている。貴船が、お前を認めたんだよ」
「よか、った…」
もともと主にしか行えぬと言われていた魂振り。
自分に出来るのか不安に思っていたのを思い出して私は息をついた。
「ほんに、お前は我には出来過ぎた子だよ」
「そんな…!私は…私は、勝手にいろんなことに首を突っ込んで…結局母様を…」
そう言ってうつむいた私の頭の上を風が通り過ぎたような気がして顔をあげると、母様がその透き通った手で私の頭を撫でてくれていた。
「我は、神である前に一人の母として、自分の娘の頭を撫でてやることもままならぬ。我はそれが何よりも今口惜しい。この世に在る全てのものは何かしらそういった葛藤を抱えて生きているのだろう。神だからといって何もかもを救えるわけでもない。それを達観してしまうか、それとも…それでも何かを救おうとあがくのか。我は、たくさんのものに心を移し、共に苦しむお前がとても眩しく映る。遥か昔の国造りの神々たちはこうして人々と共にこの日ノ本を創り上げてきたのだからな」
「…、それでも、私は…何も救えませんでした」
羽衣狐の依代は亡くなり。
京都に住むたくさんの人々が殺され。
「ふむ…。では、我が見たあの光景はなんだったのだろうな」
「え?」
その言葉に、私は母様を見る。
「穢れに倒れたお前のことを、陰陽師も、妖怪も、そしてもちろん神使も。多くの者が心配し、そして一心に看病していた。その様子を見てお前はもう大丈夫だろうと我は安心して眠りについたのだよ」
「そ、んな…、みんな…」
「特に、あのぬらりひょんの孫…リクオといったか。あやつの心配ぶりにはこちらが驚かされた。昼も夜も、自身も大層な傷を負っていたと言うのに付きっ切りでお前を見ていてなぁ」
リクオ…
「それでも、お前は何も救えなかったと言うのか?」
母様のまっすぐな視線に、私は唇を噛みしめた。
「…私は、私は自分の結果に後悔しています。…でも、何もしなかった方がもっと後悔していただろうから。やっぱり、これでよかったんだと、思います」
そう言って、笑った。
母様の前で。
月のない夜。
私は笑顔を思い出した。
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