とあまりむっつ
「実は、黄泉へ行く黄泉平坂は幾つかあり、その一つがここ、熊野にもあるのでな。黄泉にいる母が寂しいと言うから儂はよく黄泉に行くのだよ。そこで晴明が反魂の術を使おうとしていることを噂に聞いてな。黄泉の魂は全て母のもの。これを母が知ったら癇癪を起すからなぁ。こっそり媒体である羽衣狐の方を倒してほしかったのだが…。このようなことになっているとは…」
顎を手でさすり、スサノオ様は眉を八の字にする。
「でも、スサノオ様はイザナミ様に呼ばれたり姉様の天照大神様に呼ばれたりで今回ほとんど地上にいませんでしたからね」
速玉様が苦笑して、夫須美様は呆れたように溜息をつく。
「だいたい、私達はそんなことを夜護ちゃんに頼んでたなんて聞いてないわよ?」
「言ったって仕方なかろう。どうせ儂達にできることなぞ何もありはしないのだから。…しかし今回の貴船母娘のことは儂の責任だな。どれ、右手を見せてごらん」
言われて、私は右の袖をまくる。
相変わらずの黒い痣にスサノオは唸る。
「これは…ただの穢れではないな。父のイザナギでさえ、黄泉から逃げただけで禊をしなければならぬほど穢れに侵されたという。…この痣には黄泉の炎が宿っている」
言われて見てみれば、自分の右手の痣からは仄暗い炎みたいな黒い靄が幽かに揺らめいていた。
「黄泉の“何か”に直接触れてしもうたのだろう。これを祓うのはちと難しい。しかも、その痣自体が黄泉と繋がってしまっておるから他の神々にも穢れをうつしてしまう危険がある。儂は黄泉の神でもあるから大丈夫だが、ここにいる夫須美や速玉も危ないな」
「そ、んな…」
この右手がすぐに治るとは思っていなかったが、予想よりも悪い状況に思わず体を強張らせる。
そんな私にスサノオ様は懐から淡い色の数珠を取り出してそれを私の右手首にはめた。
その途端、一瞬電気が奔るような痛みを感じて思わず目を閉じた。
「うむ。良い具合だな」
スサノオ様の満足そうな声に恐る恐る目を開けてみると、痣から立ち上っていた黒い靄が手首に巻きついた数珠へ吸い込まれていた。
「これは…」
思わず尋ねると、スサノオ様は満足そうに頷いた。
「うむ。これは母からもらった神器“黄泉路”という。この数珠は黄泉に繋がっているから、その腕の穢れを黄泉へと戻している。完全になくなるまでは何百年もの月日が必要だろうが一先ず黄泉の炎を封じることは出来る」
その言葉に、私はほう、と息をついた。
数百年。
その月日は“人間”だった私にとってはとても長い時間。
実感が全くわかなかった。
しかし、自分のことよりも大事なことがあるのを思い出して私は慌ててスサノオ様に向き直る。
「そ、それではこれは母様に…!」
しかし、言い切る前にスサノオ様に首を振られた。
「本来穢れは水で祓うもの。この数珠よりも自分の神地にいる方が高淤加美の回復も早いだろう。それはまだそれが出来ないお前のものだよ」
「そ、うですか…」
ああ、また自分の無力さが歯がゆい。
しかし、落ち込んでいる暇などなかった。
スサノオ様が次に貴船の守り方を教えてくれたのだ。
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