みっつ
「う…」
暗く深い深淵から急速に浮かび上がった意識。
瞼を持ち上げることさえもひどく億劫で。
それでも、瞼にさす光が恋しくてゆっくりと私は目を開けた。
「…!水姫!」
「起きたか…」
それと同時に聞こえた声と安堵の溜息。
「ば、く…、しら…さ…」
おかしいな。口が上手く動かない。
「よい。無理してしゃべるな」
白尾さんの言葉に、ゆっくり横に首を振る。
「せい、め…は…、ここ、は…」
駄目だ。どんなに何があったか思い出そうとしても戦いの途中で記憶が途切れている。
何があったのか、どうなったのか。
何も分からずにひどくもどかしい。
それにふうっとため息をついて、白尾さんは腕を組んで口を開いた。
「全て終わった。その身に浄化の力を受けた晴明はしばらくは復活できまい。…少なくともあと一年ほどは。お前の心配している奴もみな無事じゃ。そして、ここは陰陽師、花開院家の寝所。今、奴良組の百鬼夜行もここに留まっておる」
知りたいことをほとんど話してくれた白尾さんに頷いた私は自分の手をゆっくりと動かそうとして。
そして、目を見開いた。
「私、は…いったい…」
全く動かない右腕。
ふと目をやれば、寝巻きから伸びる右腕は黒く変色していた。
変化のない左腕で右腕を触った瞬間。
「あつっ!」
身悶えるような痛みを感じて私は身をすくませた。
「な、に…?なに、これ…?」
訳が分からない事態に私は混乱…いや、あまりのことに錯乱する。
その私の肩を強く掴んで落ち着くよう抱きしめてくれたのは獏だった。
「ば、く…」
「大丈夫だ」
低く、暖かい言葉に、私の目から涙があふれる。
「ねぇ…、なに?これ…、私、どうしたの…?」
私の問いかけに、しばしの重い沈黙を伴ってから白尾さんが答えてくれる。
「晴明が地獄から蘇ったのは覚えているじゃろう?神々にとって地獄の穢れは忌むべきもの。それは妖怪の瘴気よりもはるかに禍々しく強大で、そして神の命を蝕む。水姫、お前はその穢れに侵されたのだ」
「そ、れじゃ…」
だらりと下がる、黒い自分の右腕を私は恐怖の目で見つめる。
この右腕から穢れが全身に行きわたり、私は死ぬのか。
獏や、母様や…リクオ達をおいて。
そんな私の心を見透かしたように白尾さんが首を振る。
「大丈夫じゃ。水姫、お前の命を蝕む穢れをお前の母と私とでその右腕に封じることに成功した。生死の境をさまよいはしたが、もう峠は越えた。しばらく右腕は使えんじゃろうが、そのうち動かせるようになるじゃろうて」
「あ…」
張りつめていた緊張がふっと抜けた。
「あり、がとう…。あの、母様は…」
そういえば、闇の中で母様と会った気がする。
その生死をさまよった中、私を現に連れ戻してくれたのは母様だろう。
そう思って聞くと、返ってきたのはさきほどよりもひどく息苦しい沈黙。
「え…?」
二人とも何も言わない。
「母様は、貴船へ帰って…しまわれたの?なら、会いに…」
「水姫」
私の言葉を、白尾さんが遮る。
「落ち着いて聞け。奴は、お前を愛していた。だからこそ、このことは誰も責めるべきではない」
「どゆ…こと…」
どくん、どくん、と脈を打つ心臓の音がやけにうるさい。
その背中を獏が抱きしめたまま、ゆっくりと落ち着かせるように撫でてくれる。
「水姫が負った穢れは、まだ幼いお前が抱えるにはあまりにも大きく、危険すぎた。奴は…高淤加美は…お前の穢れを己の体に移すことでお前を救ったのだ」
「え…?」
なに、を言ってるの?
穢れって…この右腕に封印したんでしょ?
なんで母様がそんなことをする必要があるの?
「その右腕の穢れはお前が負ったもののうちのほんの一部。母が背負ったものの、残りかすじゃ」
嘘だ。
聞きたくない。
身体が、震える。
「高淤加美は、神地にて長い、眠りについた。背負った穢れを浄化するために」
目の前が真っ暗になった。
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