心の奥の奥

ランサーと名前が二人並んで商店街を歩いていると、唐突に名前の肩が叩かれた。反射的に振り返ると、以前どこかで見た様な白い美人。

「あー!お前!こないだは良くも俺を犬にしてくれたな!」
「どもー、それはそれで楽しかったでしょ?」
「楽しくないわ!」

ははは、と無邪気に笑う魔法少女と名乗る白い美人。怪しいことには違いない。

「今日はお兄さんじゃないんだ!」
「え?私?」

ステッキをこちらに向けられて、思わず聞き返すが、前回「わんこになぁれ」の一言でランサーが本当に犬なってしまったから、同時に身構えてしまう。

「好きな人のこと、忘れてみようか!」

くるくるとステッキを回され、呆然としているうちに、白い美人は消えていた。



恐ろしいことを言われてしまった。
好きな人、が指す範囲がわからない。
ディルムッドのことか、ランサーのことか、友人達のことか、それとも全員か、考えるだけで恐ろしくなった。
かの白い美人には前科がある、確実に名前は、明日誰かのことを忘れてしまう。

「どうしよ、クーちゃん。寝るの怖いんだけど」
「まぁ、…たしかにな。一緒に寝てやるんだから、そんなに心配すんな。」

夕食を終え、入浴も済み、自宅のソファでゴロゴロとくつろいでいるものの、夕刻の美人の言葉が気になって落ち着かない。
気にしたランサーが名前の家に泊まりに来ているが、明日忘れているのがこのランサーなら、どうしたらいいのか。

「明日は土曜だ、とりあえず気にするな」
「うん…」


朝を迎えた名前の記憶からは、辛い記憶とともに、ある英霊の記憶が消えていた。


結ばれることのない苦しみを、一緒にいられる喜びで覆い隠して、名前は英霊を見つめて微笑んでいた。
でも、一緒にいられない一人の日は、苦しみが溢れ出てくる。

その日々溜め込んだ苦しみはすべて消えた。
もう名前が涙に暮れることはない。


「クーちゃん!私なんも忘れてない!」
「お、良かったな!今日せっかく土曜だし、どっかいくか?」
「そうだねぇ、…あ、今日アーチャーさんにお呼ばれしてたんだった。」

朝ごはんをランサーと食べてから意気揚々と支度をして、名前はいつものように家を出た。
誰のことも忘れてはいない。衛宮邸にいる士郎、セイバー、桜、ライダー、そして凛、アーチャー。アパートで一人暮らしのイスカンダル、ふらふらとたまに現れる雁夜とランスロット、洋館のイリヤとバーサーカーとお付の2人。そして、いつも仲良し夫婦のケイネスとソラウ。

ほら、だれも忘れてなんかいない。

「お邪魔します!」
「お、名前さんか、アーチャーに呼ばれたな?」
「士郎くんおはよう、ミートパイを作ると伺ったので」
「坊主、邪魔するぜ」

へへっと笑った名前と欠伸を噛むランサーを士郎は屋内へと招き入れ、いつものようにたわいない会話をしている。

「そういや、セイバーがディルムッドも呼んでたよ」
「…?」
「名前さん?」

ディルムッドという単語にいつも過剰反応する名前が、首を傾げた。
ランサーはそれまで何も無いと思っていた名前の変化に、漸く気がついた。

「名前、ディルムッドだぞ?」
「でぃ、るむっど、って人?人の名前?そんな人知り合いにいたっけ…?」

唖然とする皆を後目に、名前は衛宮邸の居間へと歩いていった。


かくして、目の前にはほかほかのミートパイ。自分で選んできた赤ワインを注げば、幸せな飲み会の始まりだ。昼間っからなんて贅沢な。士郎にはお礼として材料費の名目でポチ袋を渡してある、そんなタダ飯ぐらいのような訝しげな視線を向けられる所以は、名前には検討もつかない。

ただよく分からないのは、辛そうな目をして縁側から覗いてくるその美青年だ。
一目見ただけで意識を持っていかれそうになるほどのイケメンが、こちらを遠くから見つめてくる。

「……食べづらい。」

セイバーまでもが、フォークを握ることも無くこちらを見ている。
さきほどかの美青年が登場した際、名前はきちんと挨拶をした。一瞬そのあまりの輝きに立ちくらみはしたが、大人としてきちんと挨拶をした。だからこんなことになるのはおかしい。

「本当に覚えてないのか?」
「ん?」
「ディルムッドのこと」
「えっと……あんなイケメンに会ったらなかなか忘れられないと思うんだけど」
「こりゃ、してやられたな」

あの悪趣味な女め……

ぽつりとランサーが零した言葉で、名前はようやく理解した。自分は誰も忘れなかったんじゃない、忘れてしまった人を覚えているはずなんてなかったのだ。

「ランサー、説明してください」

セイバーがいつになく真剣な面持ちでランサーを問いただす。ランサーは昨日あったこと、以前の犬騒動のことも交えて説明してみせると、皆がようやく理解したころにはディルムッドは縁側に腰掛けて居間に背を向けてしまっていた。

「じゃあ、変な暗示を掛けられたってことかしら?前は名前さんがランサーのことを触ったら元に戻ってたわよね、なにかきっかけがあれば……」

事態を把握してからは、セイバーも魔術のせいかと納得してミートパイに意識を戻した。逆に名前は美青年から目が離せない。
凛は真剣に暗示を解く方法を考えているようだが、桜は少し頬を紅潮させて、凛に耳打ちをした。

「姉さん……」
「なに?………………あぁ、あるかもね」

凛は立ち上がると、名前とディルムッドの手を掴んで、強引に居間から連れ出した。まだ靴を履いたままだったディルムッドが慌てて脱いだために、縁側の向こうには大きな靴が散らばった。

「り、凛ちゃん!?」
「ちょっと2人で部屋に篭っててくれません?落ち着いてパイが楽しめないので」
「そんな、」
「ちょっと待ってくれ!心の準備が!」
「伝説の色男がなに女々しいこと言ってんのよ!士郎!部屋借りるわよ!」
「あいよー」

凛は2人を居間から離れた部屋に押し込んで、ご丁寧に結界を張ってから居間に戻った。これで一定時間2人きりだ。

居間に戻ると、なにが起きたかわからないギャラリーが、ザワザワとミートパイを楽しみ始めていた。

「なんで2人きりなんだ?」
「2時間くらい薄暗い部屋で2人きりにしたら、ディルムッドも男を見せるでしょう」
「ああ、そういうことか。……名前も女になっちまうのかねぇ」
「そんな、そこまでの急展開は……」
「凛、さすがに強引過ぎだぞ……」

とかなんとかいいつつ、ランサーとアーチャーはちゃっかり名前が持ってきたワインに手を伸ばすのだった。



ポイと襖の中に放り投げられ入った部屋は、電気を付けていないせいで薄暗い。
電気を付けようにも、魔術のせいか一向に明るくはならない。

「あ、あの……、なんか、ごめんなさい、私のせいで、」
「いいや、名前のせいではない。」

俺が、と言いかけて、ディルムッドは口を噤んだ。
名前が所在なさげに立っている中、ディルムッドはとりあえず、と名前の手を引いてその場で向かい合って腰を下ろした。何も無い薄暗い畳の部屋は、なんだか居心地が悪い。

「クー殿の時はたしか、頭を撫でたら元に戻ったな。……撫でてみてもいいか?」
「……はい」

そっと伸ばされた手が、名前の頭を撫でた。骨ばっているのにしなやかな手が、優しく髪を撫ぜる。優しすぎる手つきは、どこかこそばゆい。

知らず知らずのうちに身体を強ばらせていた名前に、ディルムッドは微笑みながら更に距離を詰める。

「緊張しなくていい、今は忘れているかもしれないが、俺はそんな恐ろしい人間ではない。少なくとも名前にとってはそうではないよう、努めてきたつもりだ」
「でも……」
「……そうだな、今の名前にとっては俺は知らない男だな」

薄暗い中でも、悲しげに瞳を伏せたディルムッドの顔ははっきり見えた。
自分のせいで、この人を酷く悲しませている。自分にとって大切なはずのこの人を、いくら忘れてしまっているとは言え。

すっかり頭を撫でるのを辞めてしまったディルムッドの腕に名前はそっと触れ、伏せられたその切れ長の目を覗き込んだ。

「ディル、ムッドさん、?」
「ああ」
「ディルムッドさん」

名前を呼べば、嬉しそうに笑いかけてくれるこの人のことを、たとえ忘れていたとしても、今までなにがあったかは忘れてしまっていても、この胸の高鳴りだけはどうにもごまかせない。

「私、あなたとどうやってすごしていたか、思い出せないんです。でも、なんでか、すごく、」

ドキドキする、そう言い終わる前にぐいと引き寄せられて、体勢を崩した。広い胸の中に身体をすっぽりと覆われて、さっきまでも頭に響いていた心臓の音が、どんどんと早くなっていく。
横抱きされるように抱きしめられた身体の重みを支えられながら、さっきされたように頭を撫でられた。
たくましい腕が目の前にあって、それに包まれているだなんて。

「わ、私たちこういうことする仲だったんですか!?」
「さあ……?」

くすくすと頭上から笑う声が聞こえた。見上げると擽ったいほどの瞳が、こちらを見ている。

「記憶がどうやったら戻るか、試すとしようか」

いたずらっぽい声とは裏腹に、視線が甘い。
名前の心臓は破裂するんじゃないかと思うほど、大きく脈打っていて、顔は熱い。

身体をなんとか起こそうともがいても、たくましい目の前の腕はビクともしない。
頭を撫でられながら顔を寄せられ、反射的に名前がぎゅっと目を瞑ると、ディルムッドの唇が名前の頬、額、耳、と場所を変えていく。
記憶のある限り、自分はこんなことをした経験はない。ありえないくらい高鳴った心臓はおさまらないし、状況に頭は追いつかない。
ランサーとだってじゃれつくことはあるが、こんなに優しく触れられたことはない。自分が今まで知っていたのはあくまでじゃれ付きだということを、触れられたところから熱くなっていくのを感じて実感していく。
背中や腕を撫であげられると、じんわりと身体の中心が熱を持つのがよく分かってしまう。こんなの知らない、はずなのに。

「や、やめっ」
「俺のことは思い出したのか?」
「でも、もうっ」
「まだか……」

切なげな目に胸が締め付けられる。どうして自分はこんな素敵な人のことを思い出せないのか、どうして忘れてしまったのか。

好きな人を忘れる、なんてオーダーなのだから仕方ないのだけれど。

名前がじたばたと動くのをやめた瞬間、重力に従ってそっと背中に畳が触れた。まだ頭は抱え込まれたまま、天井を背景にしたディルムッドの顔が、名前の視界に映る。

「もう一つだけ、試してもいいか?」
「ひとつ……?」
「ああ、あと一つだけだ」
「どうしてそんなこと、聞くんですか?」

さっきまで好き勝手触っていた癖に、と心の中で思ったのに、対するディルムッドは視線を1度逸らしてから、意を決したように名前を見た。

「これは、無理強いしてはいけないからだ」

何をするつもりなのかは名前には分かっていなかった。ただ、先程までの柔い愛撫よりももっと、もっと凄いなにかなのだろう。
でも、知らないはずのこの人になら何をされたって構わないと、そう思って、小さく頷いた。

「目を瞑ってくれるか?」

ぎゅっと目を瞑り、身体を強ばらせて、しばらくの無音を待った。ディルムッドの身体が近づいているのが、身体にかかる重みでよく分かった。
そして何が起こるのかと思ったら、そっと唇に柔らかい感触が当たった。

「......!!」

目は開けられない。唇に触れた柔らかい感触は、角度を少しずつ変えて繰り返し与えられる。そして恐ろしいことに、それが触れるたびに、一つずつ感情を思い出していた。辛く、優しく、甘く、淡い、ディルムッドへの感情が徐々に思い出されると、置かれている状態がどんどんと理解できてきて、名前は脳みそが煮えたぎる。

チュっというリップ音が響いて、ディルムッドが顔を話す頃にはこの行為が始まってから20分は経っていた。

「名前、どうだ...?」

拘束を解いてはいるもののまだ抱きしめたままの状態の名前に恐る恐る聞くと、顔を真っ赤にした名前はバチっと目を開けて、そして即座に両手で顔を隠した。

「...ディルムッドさん、今私に何してたんですか」
「何って...、キスを。もしかして嫌だったか?しつこくしてしまったのは申し訳ないと...」
「き、ききき、キス、私とディルムッドさんが、き、キス...!!!!!」

名前は声にならない悲鳴をあげて、ごろりと畳を転がるようにディルムッドの腕から逃げ出した。そしていつの間にか解けていたらしい結界によって開くようになった襖を開け放って、顔を隠したまま走り去ってしまった。

「思い出せた、ということか...??」

残されたディルムッドは唖然としながらそう呟くと、勢いといえどしてしまったことを思いため息をついた。名前の記憶のために、いやいやしたわけではない。名前に対して思いがないわけではないからしてしまったことだ。実際、その唇に触れたら止まらなくなってしまって、何度も柔らかさを啄ばんだ。そのまま舌を強引に割り込んでしまうのをぐっと理性で抑えただけ偉いと、自分では思っている。もしそんなことをしてしまえば、そのあとの行為すらしたいと思ってしまいそうだったから。名前はもし自分が甘い言葉で流してしまえば、その身を委ねてしまうことをディルムッドは十分に理解していて、それは良くないということもよくわかっている。
それでも、記憶を自分の分だけすっかり忘れてしまった名前を見て、寂しい、嫌だ、そう思ったのは間違い無い。そしてあの少女の好意に対し、自分も暖かい気持ちになっていたことも十分に自覚したのだから。


居間に戻った名前は訳を知らないランサーに八つ当たりしながら、ミートパイに手をつけた。しばらくして戻ってきたディルムッドによって先ほどの出来事が暴露されると、また顔を真っ赤にしてワインに手を伸ばすのだった。


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どうしようもなくなったので、ここで打ち切りです...


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