「私ね、好きな人がいるの」


 彼女はそう言うと目を伏せて、水滴が浮かんでいるグラスにささっているストローをクルクルと回す。カラカラと氷が音を立てて、ジュースがグラスの中で小さな渦を巻いた。
 頬杖を付きながら片手でストローを回すその姿は、まるで何かの風景写真の様だった。そこだけ綺麗に切り取られて、別世界を見ている様な。
 先程、何でもない様に淡々と想い人が居る事を僕に告白してきた彼女は、変わらず穏やかにそこに居た。


「……へぇ」
「えー?反応うっすいなぁ」


 ただ短くそう零した僕に、彼女はカラカラと軽く笑った。だって、本当にどう反応したら良いのか僕には分からなかったから。

 気が付いたら、僕は彼女が好きだった。勿論、この場合はLikeじゃなくてLoveの方。
 幼馴染でずっと一緒に居た、隣を見れば彼女が当たり前のようにそこに居た。だから、幼い頃の僕の世界は兄さんと彼女が中心だった。それで僕も良いと思っていたし、今も思ってる。
 でも、兄さんは昔から兄離れと幼馴染離れをしろとよく口煩く言ってきた。それが昔の僕には何故そこまで言うのだろうと不思議だったけれど、今日少し分かった気がする。

 遠回しに兄さんは、ずっと同じ関係では居られないって言ってたんだ。
 僕が彼女に抱いているこの感情も、彼女が先程カミングアウトしてきた感情も。どう転ぼうが、きっと今と同じでは居られないから。


「まぁ、無一郎はこういう話に興味無いのは何となく分かってたけどさぁ」
「……別に、そんな事は無いけど」
「そう?」


 クルクルと回していたストローを止めて、こちらを見て彼女はまた笑った。けれどすぐに彼女がでもね、と言葉を続けた。


「失恋、したの……と言っても一般的な失恋とは形がまるで違うし、これを失恋といって良いのかも分からないんだけど」
「……そう、なんだ」
「うん、そう」


 そう簡単に言ってのけた彼女の雰囲気は変わらない。表情も、全然変わらなかった。普通、そういう事があったら少しくらい悲しい顔とかするもんじゃないの。それとも、彼女みたいな珍しいケースを僕は初めて目の当たりにしたって事?……訳わかんない。
 そんな風に困惑していたらそれが分かりやすく表に出ていたのだろう、彼女がこちらを見て小さく笑った。


「何でそんなに落ち着いてるのって顔してる」
「……だって、こういう時って大体はショックを受けるものだって聞くから」
「そうだね、でも今回の私にはそれが当てはまらなかったみたい」
「好きだったのに?」
「うん、好きだった筈なのに」


 可笑しいよね、と変わらぬ穏やかかな表情を浮かべたまま、ジュースを一口飲んでから再びカラカラと氷を混ぜた。それは一見まるで手持ち無沙汰の様で、何処か必死に気を紛らわせている様に僕には見えた。
……いや違うな、これは────。


「何でそんなに、焦ってるの」
「……え?」


 僕が思わず思った事を口に出せば、彼女は分かりやすく固まった。その表情は何処か歪で、今すぐにでも泣いてしまいそうな顔。それは不安定で、それでいて何処か愛おしいと僕は感じた。……可笑しいな、僕に加虐趣味なんて無いはずなんだけど。いつか何処かで聞いた、好きな人ならば全てが愛おしく感じるというやつだろうか?
 カラカラと氷を混ぜていた音がピタリと止まり、僕らの周りに静寂が訪れる。今この喫茶店には時間が早いのもあり僕達以外誰も居ない、居るとすれば店主の人だけ。時折、珈琲の準備やらをする音が控えめに聞こえてくるくらい。

 チラリと窓の外に視線を向ければ、朝焼けでキラキラと輝きを放つ海。流石にずっと見ていると眩しい。
 それにしても、どうして彼女はこんな朝早くから僕を此処に呼び出したのだろうか。まさか先程の報告をする為だけに?それならば有一郎の方が適任だっただろう。きっと兄ならば上手く彼女の事を慰められただろうに。……まぁ、好きな子に誘われて素直に従い、ノコノコ来てしまった僕も僕だけど。

 どうして彼女は、僕を選んだんだろう。


「……あの、ね。本当は最初、OKして貰えたの」
「え?」
「でもね。何か相手がテンション上がっちゃったみたいで、すぐにキスされそうになったの」
「……そう」
「その瞬間私、何考えたと思う?」


 何故か無一郎の顔が過ぎって、咄嗟に突き飛ばしちゃった。好きだって言って告白したのは私の方なのに、まるで無理矢理みたいな雰囲気になっちゃって。彼にも凄い悲しい顔させちゃったけど、それ以上に私自身の気持ちが訳分からなくて。やっぱり今のは忘れて下さいって言って逃げちゃった。最低でしょう?

 ヘラリ、とヘッタクソな顔で笑ってみせた彼女は酷い顔だった。多分これで僕が彼女の事を好きじゃなかったら、不細工と言っていたことだろう。けれど実際の僕は彼女を好いているから、その表情すら可愛いと思える。彼女を構成する全てが、僕にはとても愛おしい。
 そして今の話を聞いたと同時に、何故僕がここに呼び出されたのかも理解した。僕絡みだったから、僕じゃないと駄目だったからだ。

 好きな人の頭の中に少しでも自分が居て、現在進行形で大きくなって考えているなんて、そんな嬉しい事はない。これで思考の全てを牛耳れたら、最高なのに。
 それとも、今ここで僕がそうしてしまえば良いのだろうか。


「ねぇ、それって僕以外にキスされるのは嫌だったって事?」
「っえ……!?」
「だってさっきの台詞はどう考えてもそう言った様なものだよね」
「そ、れは……」
「僕、名前の事が好きだよ」


 ずっと、ずっと。気が付いたら君の事を好きになってたんだ。

 付け加える様に追い打ちをかければ彼女には効いた様で、目を丸くしてこちらを凝視していた。分かってはいたがこの反応、やはり気が付いていなかったらしい。そして兄離れ&幼馴染離れをしろと口酸っぱく言ってきたあの兄も、仄めかす様な事は特に何も言わないでいてくれたのだろう。彼女の今の混乱している様子が、何よりの証拠だ。結局兄さんも、優しいんだから。
 それにしても仕返しにとあくまで冷静に淡々と告げてみたのだが、僕の落ち着きっぷりとは反対に彼女が見るからに慌てだして面白い。ワタワタとしている珍しい彼女は、暫く見飽きない事だろう。だが、今はそんな幼稚な意地悪をしていても仕方がない。すぐにでも彼女の心からの気持ちを知りたいし、今の僕にはそれを知る権利があると思う。

 だから、先に謝っておくよ。ごめんね?


「……え、」
「……嫌だった?」
「嫌じゃ、なかった……」
「そっか、なら良かった」


 身を乗り出して、テーブルを挟んだ向かい側の彼女の顔へ僕の顔を近付けた。初めて触れた愛おしい人の唇は柔らかくて、しっとりとしていた。キスの味はレモンとかではなく彼女が飲んでいたジュースの味だったし、それは彼女の方もきっと同じだろう。僕は甘かったけど、僕が飲んでいたのは珈琲だったから彼女には少しだけ苦かったかも、なんて。そんな事を思うくらいには僕の思考はかなり浮ついているみたいだ。

 それなりの衝撃だったのか、彼女は未だに呆けている。アホ面だなぁ、と僕はそれを眺めていれば視線に気がついた彼女がすぐに止めてしまった。残念、あれもあれで可愛かったのに。
 けれど僕は君に休憩時間、もとい余裕なんてなんて与えるつもりは無いからね。遠慮無くどんどんいくよ。


「それで、返事は?」
「今!?」
「別に僕はちゃんと返事をくれるなら後日でも良いよ」


 でも今の君の場合、その“後日”がいつになるか分からないでしょ。だから取り敢えず今現在の名前の気持ちを聞くんだよ。

 本当は今すぐにでも返事が欲しいし、叶うならOKしてほしい。でもそれは僕だけの先走った気持ちであって、彼女の気持ちは一切含まれていない。何なら押しすぎれば絶対に逃げられてしまうだろう。漸く釣れそうな獲物を焦ってみすみす逃すなんて、そんな絵に書いた様な馬鹿な真似は絶対に出来ない。
 だから、今は取り敢えず現在の気持ちを聞く。それならば彼女の中で整理もつきやすいし、もし仮に今フラれたとしても、今までよりは随分とアピールがしやすくなるだろう。結局は君の為と言いながら、僕自身の為。本当、こんな僕に好かれるなんて君も大変だ。……まぁ止めるつもりもないけれど。


「私って好き、なの……?無一郎の事」
「ねぇそれ僕に聞いちゃうの?」
「だ、だって、意識したのだってさっき話した時が初めてで……!」
「……でもさっきのキス、嫌じゃなかったんでしょ?」


 ニッコリと笑ってそう言ってみせれば、一瞬で鮮やかに染め上がる彼女の頬。耳まで赤く染め上げた彼女はとても可愛らしく、今ここが外じゃなかったら思いっ切り抱きしめていたことだろう。本当、彼女は今ここが外であることに感謝してほしい。……といってもさっき軽くキスしちゃったし、店主さんは多分見ないフリをしてくれてるから、その事実を彼女には言わないでおこうと思う。
 そんな秘密を胸の奥にしまいながらニコニコと彼女を見つめていれば、先程からはくはくと口を動かして何かを言おうとして止めてを繰り返している。

 もー……仕方ないなぁ。結局こうやって助け舟を自分で出しちゃうんだから、僕もこの子に相当甘いよね。


「じゃあ名前は僕が好き?それとも嫌い?」
「えっ」
「五秒以内で。はい、ごー、よーん、さーん」
「えっ、えっ!?ちょっと待って……!」


 僕がカウントダウンを始めれば、状況を上手く呑み込めていなくて慌てる彼女。可愛いけれど、残念ながら今は待ってあげないよ。


「にー、いーち、」
「……っ好き!無一郎の事が嫌いな訳ない!!」
「……ん、今はそれで良いよ」


 零のゼを声に出すか出さないかの瀬戸際で、彼女の切羽詰まった声に遮られた。愛しい彼女の答えは“好き”の方。この二択ならどちらを言われるか元々分かっていた筈なのに、頭の何処かで不安になっていたであろう僕がホッとしていた。
 落ち着かせるように彼女の頭に手を伸ばして、ポンポンと軽く撫でた。今はその答えで良いよ、ありがとうって気持ちが伝わる様に。そうすれば、分かりやすく彼女の肩の力が抜けたのが分かった。

 そこに俺は名案、とばかりに一つの案を提示した。


「取り敢えず一旦拒否っちゃった奴の事は忘れて、僕の事に集中してみたら?」
「無一郎に集中?」
「そ、僕の事だけを考えて、僕の事を恋愛感情として好きか判断する期間。そうしたら名前も自分の気持ちが分かりやすくなるでしょ?」
「な、成程……?」


……なーんて、そうして考えている間に僕で一杯にしちゃえば良いんだよね。今彼女の中の恋愛の天秤は五分五分、もしくは顔も知らない野郎に有利かもしれないけれど、彼女がキスを本能的に拒んだ時点で勝率は大いにある。しかもその時に僕の事を思い出して、だ。そんな事を聞いてしまっては天秤を張り切って僕の側に傾けるに決まっている。

 先程彼女の今現在の気持ちを聞いたばかりだし、なんなら表向きは彼女に返事を待つって言ったけど、誰も攻めないなんて一言も言ってない。返事は一切急かさないけど、僕も好きにする。年越しの想いなので、これくらいは可愛いと思って許してほしい。
 自分から提案しておいてあれだけど、楽しみだなぁ。これから彼女の頭の中は僕で一杯になる訳だ、四六時中占拠しまくりな訳だ。……そうだなぁ、手始めに意識させる為に手でも繋いで目の前の海を散歩してみようか。きっと朝早い海は空気が澄んでいて、とても気持ち良いんだろうなぁ。うん決めた、そうしよう。

 思い立ったが吉日、即行動!と言わんばかりに僕は席から立ち上がった。浜辺を散歩しよっか、と提案し彼女の手を取って絡めて見せてみる。
 するとこれまた驚きの声を上げて真っ赤な顔で繋がれた手と僕の顔を交互に見るものだから、つい笑ってしまった。

 お会計を済ませてから店主さんに挨拶をすると、すぐさま僕はクンッと繋がれた手を引いた。振り払わられるものかと思っていたが、どうやらそんな事は無いらしい。嬉しい誤算だ。


「あ、そうだ。何なら少しだけ海入る?」
「拭くもの持ってきてないよ」
「足だけならすぐ乾くでしょ」
「……無一郎ってそんなに海、好きだっけ?」


 不思議そうにこちらを見てくるので、僕は素直に別に?と返す。そうすればより一層不思議な顔をされてしまった。
 でも仕方ないじゃないか、何故か今日の海は普段より増して綺麗に見えるのだから。それでいてそこに君が加わったところが見てみたいと、そう思ってしまっただけ。そんな事は絶対に言わないけれど。


「ただのちょっとした気紛れだよ」


 君にバレない様に咄嗟に撮ったこの風景を、忘れたくても僕は一生忘れないだろう。





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