序章の助走
たとえばキスの合間とか。

目が合う瞬間に少しでも怖気づいたりしたら、このひとは。

「―…カイト?大丈夫か?」

やめてしまうんだろうなと思った傍から、心配そうに覗き込まれて慌てた。

「は…っあ、…っ」

お気遣いなく?
続けて下さい、かな。
お好きにどうぞ、かもしれない。

とにかく早くそれらしいことを伝えたいのに喉が震えて思うように言葉が出てこない。

だって互いの息が掛かる。
マスターの瞳は全部、俺が占めてて。
そんな中緊張するなって方が無理な話なんだけれど。

こちらが動揺すればするほど、目前のひとは距離を取るのも分かってきていた。

現に身を離したマスターの手のひらがぽすんと頭に降ってくる。

そのまま緩く髪を混ぜられて、足元で拾われる雑誌。

俺の膝から落ちるまで並んで見てた頁を探すひとを見た。

会話の内容は他愛無い、けれど俺にとっては重要な。

聴くなら?着るなら?観るなら?どれにするか。
好きなひとが選ぶ、好きなものの話。

行くなら海と山どっちがいい?なんて問い掛けに、マスターが居るならどちらでもいいって。

答えたときには詰められていた距離はもう、すっかり元に戻っているのに。

ちっとも気持ちが切り替えられない俺はたぶん、どんくさいんだと思う。

情けないし、恥ずかしい。ちょっと泣きたい。
じわりと顔が熱くなるのが分かって、喉が詰まる感覚をやり過ごしてる合間にも。

「俺は断然海派、なんだけど」

カイトと行くなら確かに山でも楽しいかもな、なんて。

すんなり話題を戻したひとは変わらず、落ち着いた声音で優しいことを言う。

どうしよう?断言できる。ぜったい俺はマスターみたいに上手く出来ない。

代わりにせめてもと伸ばした指先でソファの上、隣り合う手の甲へ触れた。

途端、少し驚いたように瞠った双眸が何か、汲み取るようにこちらを見るから。ああ、やっぱり、俺も。

「き…っきすしたほうが良かった、ですよね…!」

「…。」

思い切って聞いた数拍後、思い切り笑われた。

「…あ、あのマス」

「いや、いや悪いごめん…ははは、そうくると、思わなくて」

安心した、と返された意味を理解するよりも早く。

「してくれるなら、勿論嬉しいけど」

色々と自信がないなって、独白めいた言葉の端は逃さず拾う。

「…マスターでも自信ないことあるんですか」

驚いて聞き返した隣で緩やかに逸れてく視線の逡巡。小さく唸ったひとをじっと眺める。

「あるよ。…ありまくるよ、もう」

「た、たとえば」

「…ううーん」

秘密、と目元を眇めたマスターが薄く笑って腰を上げる。

聞き分けの無い子供を宥めるような、それでいて妙に色めいた。

今まで見たことが無かった苦笑を前に、好奇心の芽はあっけなく怯んで萎れた。

ただ、指の先から耳の端まで、じりじり燻る様な熱を持つ。

「珈琲淹れたら飲むー?」

得体の知れない動揺を持て余しながら、離れていく声音に頷き返すのがやっとだった。


end
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