こんなに遅い時間なのにも関わらず、連絡すらない。俺は時計を見ながら佐久間が帰ってくるのをじっと待っていた。

「ただいま……」

いつもの元気な声はなく、泣いたのか目の周りを赤くして帰ってきた。

「お帰り。飯は?」

「ごめん……食欲ない」

そうは言っても何か口にしなくては体に悪い。

「今日さ、スープ作ったからそれだけでも飲めよ」

「ん……」

フラフラしながらも着替えをしに寝室へと消えていった。



*




食事をしている佐久間を見ることが、俺にとって一番幸せな時間だ。おいしいと言って嬉しそうに食べる姿も、苦手な野菜を食べるときの歪んだ表情も大好きだった。


「今日元気ないな。なんかあったのか?」

俺がそう聞くと佐久間の肩がビクッと跳ねた。

「いや、そんなことないよ」

佐久間は嘘が下手だ。昔から勉強はよくできたくせにおっちょこちょいで馬鹿正直。おまけに自分のことには超がつくほど鈍かった。

顔を見たとき、俺の中の疑いは確信に変わった。
久しぶりに見た。元気は無さそうでもこんな満たされたような顔。


*


「あのさ、言おうかどうか迷ったんだけど……」

久々に風丸から電話がかかってきた。
風丸は俺と佐久間の関係を知っている数少ない友人の一人だ。声の調子からあまりいい話ではないだろうとは思ったが、それでもいいからと聞けば風丸は遠慮がちに答えた。

「佐久間が、鬼道とホテルから出てきたんだ」



*



もし佐久間が浮気をしても、俺と一緒にいられる時間はもう長くないのだから、許してやろうと思った。
実際こんな生活に付き合わせている後ろめたさはある。
だから覚悟はしていた。けれど実際その事実を知るとなると、やはりそうもいかなかった。

「こんなに遅くまで何してたんだ?」

「……えっと、明日の打ち合わせ」

こいつは本当に嘘が下手だ。ガキだってもう少し上手く騙せるだろう。
ただ、以前よりもはるかに嘘が下手なのは佐久間のせいではない


*




世界大会の真っ最中に、佐久間は告白してきた。そのときは、俺は佐久間に恋愛感情のようなものは抱いていなかったし、何より男に告白されるということがアブノーマルな話であった。それは佐久間も分かっていたようで

「男に告白されるなんて気持ち悪いよな、ごめん」

と謝った。
不思議と同性愛に嫌悪感はなかった。それは俺の中にはもっと憎むべきものがあったからだと思う。
大事な時期だったし、付き合うつもりはなかったけれど、こんなことで距離を作ったりはしなかった。
何よりも佐久間のことは仲間として好いていた。

やがて俺は帝国学園に転入した。
そして、そこで初めて知ったのだ。佐久間の学生生活がどのようなものかを。
男子校、理由はそれだけではない。佐久間は確かに綺麗だった。そしてその人目を引く容姿は周りから持て囃された。
アイドルを追いかける熱狂的なファンのような、帝国生の不躾な視線を、佐久間はいつも鬱陶しそうにしながら何も言わず、時には愛想笑いさえ見せた。"佐久間君は純粋な子だから"という訳の分からない理想を佐久間に押し付け悦ぶあの学校は、そしてあの狭い世界にいた奴らは狂っていた。それでも佐久間は何もしようとしない。佐久間には抗うという概念がなかった。ただひたすら我慢して過ぎ去るのを待つ。そのあまりにも無抵抗な姿は非常に哀れだった。




*


いつもなら生徒がどうとか鬼道と新しい作戦を立てたとか、仕事の話を沢山するのに今日は黙々と食事を続けていた。
俺と目が合うと、怯えたような顔をしながらスプーンを落してしまった。それが食器にぶつかり、不快な金属音が部屋に響く。

「大丈夫かよ、ちゃんと食えるか?」

皿に落ちたスプーンを拾ってやると少し驚いた顔をした。それに構わず俺は液体を掬い佐久間の口元まで運んだ。

「ほら、口開けろ」

恐る恐る口を開くその姿はいつもなら可愛いと感じただろう。だが今はとても卑しいものに見えた。
ついさっきまで、その口で鬼道の性器を咥えていたくせに。
喉まで出かかったその言葉を飲み込んだ。



*




"可哀想に"

俺に向けて言われた言葉ランキングなんてものがあったなら、堂々の一位はきっとこれだ。
俺は可哀想な人間として生きていた。
俺の母親が死んだあの日、警察官や近所のババアは皆口を揃えてこう言った。
"可哀想に"

母親の両親、つまり俺の祖父や祖母は既にこの世にはいなかったし、何より親戚付き合いを一切経っていた親のせいで俺は両親以外の親類を見たことがなかった。
施設に入ったときも新しい学校に転入したときも、周りの人間は口を揃えてこう言った。
"可哀想に"

俺が何故ここまで可哀想な奴だと言われていたのか、自分で理解するには割りと時間がかかった。自分のことを客観視できるくらいになるまで、ずっと自分の世界に閉じ込もっていたせいだ。

俺が可哀想なのは、自殺した母親を見てしまったから。それを知ったときはただただ驚いた。

"あきお君ってお母さんの死体見ちゃったんでしょ。しかも自殺。可哀想だね"

世の中には親切な奴がいるものだ。ここまできちんと解説してくれたお陰で、俺はようやく理解した。

警察に事情聴取をされたとき、俺は一つだけ言わなかったことがある。

母親が襲われたあの日の夜、眠れなかった俺がちょっとした物音に気付くことくらい容易いことだった。
風呂場からしたその音を確かめるべくそっと中を覗くと、母親が手首を切っていた。
手首を切って死ぬという行為を知っていたわけではないけれど、ドラマなんかの影響で、刃物で身体を切れば死ぬとは思っていた。
俺が見たときには床に赤黒い血がボタボタと落ちていた状態で、なんとかしなくてはと母親に駆け寄った。
"なにやってんの"と肩を叩く俺を見ると虚ろな瞳を向けて

「……明王」

と言った。
その声は、最近まったく聞いてなかった、昔の温かくて優しかった母親のものだった。
俺の顔に必死に手を伸ばし、切なげな笑顔を見せる、慈愛に満ちた母の顔は幸せだった時間を思い起こさせた。今までされてきたことも忘れて心臓が高鳴るのが分かった。そのときの母親の顔は息を飲むほど美しかったから。
母親の死体は血まみれだったけれど、とても綺麗だった。俺はずっと、"あきお君が今日学校に来てない"と心配して様子を見にきた担任がやって来るまで、母親の死体の目の前に座っていた。
周りの大人は俺が死んだ母親を見てショックで座り込んでしまったと思っているし、実際俺もそうだと嘘をついた。あの夜のことは秘密にしておきたかったし、何よりも俺は自分がしたことを分かっていた。
もし俺が近所の人に助けを求めていたら、学校で教わった通り、119のボタンを押して電話をかけていたら、母親はきっと助かっていたはずだった。
俺はあえて見殺しにした。母親の愛を独り占めにしたかった。俺だけを見つめて俺の名前だけを呼んで欲しかった。あの瞬間はどんなものよりも大切で、それにより母親が死んだとしても構わなかった。血生臭い風呂場で、今までセックスに振り回されてきた母親が俺だけのものになったという幸福感を味わっていた。死に向かっていく人間の顔がこれほどまでに美しいとは思いもよらなかった。いや、きっと愛していた母親の顔だったから綺麗だと思ったのだろう。

確かに俺は母親を失って可哀想な奴だった。だけど母親の最期に立ち会えた幸せな奴だとも思っている。セックスに狂う母親は正直汚かった。そんな母親でさえきれいになったんだ。死というものは素晴らしい。

ただ、そんなことを言うと、周りから異様な目で見られることは分かっていたから、俺は黙っていた。
セックスに対する感情もそうだ。

俺がセックスを嫌がるようになったのは、"お父さん"が来てから既に始まっていた。
そして、徐々に周りがセックスの知識をつけた頃、俺はそんな奴らの何倍も詳しく知っていた。というより知らざるを得なかった。
必死に耳を塞いで布団を被っても聞こえてくる快楽に酔った声。どれだけ時が経っても忘れられないあの光景。
俺は性に関わるものすべてに恐怖心にも似た憎しみを持っていた。
だから、セックスとは本来、深い愛情の上で成り立つ、尊い行為なのだと説く教師が大嫌いだった。
そして胸が膨らみ始めた女子の噂で盛り上がる同級生を心の底から軽蔑した。

中学に上がるとエロ本を持ってくる奴がいたり性的な話題が飛び交うようになった。
ただそれを聞くたびに猛烈な吐き気に襲われて、皆に知られないように静かに教室を出たこともしょっちゅうだった。
性的なジョークの後に下品な笑い声が起きれば、あの"お父さん"たちの声を思い出したし、ポンと机に置かれたエロ本の表紙はセックスに耽っている卑しい母親の顔を連想させた。
浮かび上がってくるそれらの思い出を掻き消すように俺はボールを蹴った。サッカーをやっているときだけはすべてを忘れられた。

性に対する嫌悪と憎しみが増せば増すほど俺はサッカーへ没頭していった。

それでも夜は孤独だった。セックスを蔑視して拒絶する自分と向き合うのはそう簡単なことではなかった。このときには既に、自分がどれだけおかしいのか、間違っているのか嫌というほど分かっていたから。

だからこそ、セックスという行為やそれに纏わるものを憎むことはお門違いであることや、母親を殺したのは自分だと言う事実はどれだけ目を背けても逃げることなどできなかった。
頭の中でどれだけ理解しようと、俺の心の中はあの頃のガキのまま止まっていた。周りの同級生より大人びていようと、中学生とは思えないゲームメイクができようと、俺の中に潜むある一部分は、これっぽっちも育たっていなかった。自分が親のセックスで産まれたことを知り、嫌だ気持ち悪いといつまでもごねるガキと何も変わらない自分に反吐が出た。ガキならまだいい。俺の場合それが大人になった今でさえ治らないのだから。




*





「佐久間」

愛しくて仕方がない、目の前にいる奴の名前を呼ぶ。

「……何?」

また怯えた顔で俺を見上げる。

「俺、お前のこと好きだから」

佐久間の目からぽたぽたと涙が溢れて、それは飲みかけのスープの中に落ちていく。食べることに関しては遅い方だけど、今日はそれに輪をかけて遅い。




*



俺は佐久間が大好きだ。今も昔も。

同じ中学で生活し、佐久間がどれだけ弱い存在なのか思い知った。
俺はそんな佐久間に惹かれたのだ。流れに逆らえない無力さ、心は男なのに女みたいな顔をした同性愛者。佐久間はコンプレックスの塊みたいな奴だった。
佐久間だって好きで男を好きになったり女顔で生まれてきたわけじゃない。しかし佐久間は自分の境遇に失望し、色々なことを諦めた。気持ち悪いと感じながらも言い返さなかったのは不完全な自分に反抗する権利はないと思っていたから。
不快な思いをしてもただただ佐久間は耐える。完全な弱者だった。
そして俺はそんな佐久間に惚れていた。
俺は無意識のうちに自分よりも弱いものを、惨めで可哀想なものに言い様のない愛情を持つようになっていた。例えば痩せ細った野良猫とか捕食された虫だとか、哀れだと軽蔑し見下していたはずなのに、いつの間にかそれらを愛しいと感じていた。
同族嫌悪という言葉があるけれど、俺の場合は同気相求とでも言えばよいのか。
弱者の惨めな姿は俺に安心を与えてくれた。この世には自分より可哀想で憐れな存在がいる。それが何よりもありがたかった。

佐久間に抱いた恋慕はまさにそれの類いだった。佐久間は猫や虫と同列に扱われて怒るだろうか。だが俺は佐久間の非力さを好いていた。一生付き合っていかなくてはならない自分自身に絶望し、抗おうともせず生きていく。その無力さに惹かれた。

男が男を好きになる。まさに俺も佐久間と同じ種類の人間になってしまった、わけではなかった。
俺が佐久間に抱いた感情は簡単に言えば好きというものだったけれど、付き合いたいとか、セクシャルな関係になりたいとかそんなことは思えなかった。
だから結局卒業式の告白を受けることはできなかった。俺が望んでいなくても佐久間は一人の人間としてそれなりのことを求めるだろう。いざそうなったときに、俺は嫌だと言えるか?悦に入った佐久間の顔なんか見たくないと、恋人であるにも関わらず、そんな身勝手なことを押し付けられるか?俺は自分が変わることを選択肢に入れなかった。入れないで考えて、出した答えがノーだった。

佐久間は泣いていたと思う。でもどうすることもできなかった。このときは理性が働いたのだ。俺みたいな奴が恋人なんか作ることはできないと。しかし俺はこの選択を後悔することになる。

高校へ進学、そしてヨーロッパへ留学を経て日本へ戻ってくるまでの間に、俺は女性関係で揉めに揉めた。
別に俺が何かしたわけじゃない。向こうが勝手に押し掛けてきては世話を焼き、泊まっていくのをただ見ていただけだ。それが気に入らなかったらしく何度も口論になったし、服を脱いだり押し倒してくる奴は何の躊躇いもなく殴った。発情した人間など俺には気持ち悪い存在でしかないからだ。そのうち"不動明王はゲイだ"という噂が蔓延したが、佐久間を好きなのだからきっとそうなんだろうと噂を払拭するのもやめた。
とにかく俺はあらゆることに至極無力だった。そうではなかったのは、サッカーと佐久間の事を考えることくらいだろう。
何よりも佐久間に会いたくて仕方がなかった。相変わらず自分を好きになれないままコンプレックスに悩む、その情けない姿を見せて欲しかった。

*


「そんなに泣くなよ」

食事を中断して佐久間は泣きじゃくっている。その間、俺はくるくるとスープを掻き回していた。


*


俺はこれまで偉くなりたいと、サッカーで這い上がってきた。偉くなれば幸せになれるとも信じていた。確かにプロとして活躍出来るのだから目標は達成できたと思う。
しかしその頃にはとっくに気付いていた。どれだけサッカー選手として有名になっても、こんな、人間として不完全な俺が幸せになることはできないと。
サッカーのためなら努力は惜しまなかった。サッカーのために自分を変えていくことを厭わなかった。
にも関わらず、俺は自分自身を変える努力はしなかった、というよりできなかった。
頭の中でこのままでは駄目だと思っても、自分ではどうすることもできず徐々に諦めるようになった。
俺も佐久間も、サッカーに対してはあれほど必死に足掻いてきたのに、不動明王、佐久間次郎という一人の人間としては何も抗うとしなかった。サッカーをやっている自分と毎晩悪夢にうなされる自分を完全に隔離して、自分の内面に向き合うこともせず、見ないようにして逃げた。
結局俺たちは自分に負けたのだ。

それでも良かった。むしろ"自分から逃げちゃダメだ"なんて綺麗事ほざく方がムカつく。
佐久間なら許してくれると思った。こんな俺を受け入れてくれると思った。
佐久間の何の力も持たない、非力な愛情をずっと欲していた。

佐久間と付き合い始めた頃、色々不安はあったものの、特に問題も起きず幸せに過ごしていた。佐久間だって人並みに性欲はあるだろうから、せめてスキンシップくらいは取れるようにしようというのが俺なりの最大限の譲歩だった。それに愛しげに俺を見つめる佐久間は可愛かったから悪い気はしなかった。


*

「悩みあるならちゃんと言えよ?俺たち付き合ってんだから」

俺が優しい言葉をかける度に佐久間は苦しむ。罪悪感で壊れそうになる。
そんなに辛いなら始めからしなきゃ良かったのに。そう言いたいけれど、佐久間が正当な理屈を述べても、きっと俺には納得できないのだから言うだけ無駄だ。



*



そういえば、俺は昔の事を色々話したけれど、佐久間は自分の過去をあまり話さないな。
丁度そんなことを考えていた時だった。アイツに――佐久間のセフレに会ったのは。

あの後、佐久間はごめんと謝ったけれど一体何がごめんなのだろうか。あれは謝ってどうこうという話じゃない。
この日を境に俺の、佐久間を見る目は変わらざるを得なかった。

まだ、好きな恋人ができてその人とはセックスしたと言ってくれたなら俺はここまで軽蔑しなかった。
佐久間は数えきれないほどのセフレとセックスをした。その事実を受け入れることができなかった。
佐久間も生きていたときの母親や、"お父さん"の仲間と同じ、セックスに狂った人間。そう考えるとゾッとした。

だから佐久間には消毒が必要だった。俺は佐久間が好きだから、見捨てたりなんかしない。

汚い話をすると、誰かが病気で吐いて、そこを綺麗にしなくてはならないというとき、人は掃除の後消毒をするだろう。
汚いものをきれいにするのは当然のことだ。




*






「……最近さ」

しばらく泣いた後、少し落ち着いた佐久間はぽつりぽつりと話始めた。

「頭が、ぼんやりするんだ。自分では、気を付けているんだけど……その、いつの間にか時間が過ぎてたり、
物忘れしたり、俺、おかしくて、いつも、同じことばっか、考えてて……」

どうしていいか分からない、佐久間はそう言った。
これは嘘じゃない。本当に悩んでいるんだ。
俺はそんな佐久間の頭をポンポンと撫でてやる。

「そんなに気にすんなよ。お前さ、少し疲れてんじゃねえの?大きな仕事も終わってんだからしばらく休め。ゆっくりすればきっと元に戻るからさ」

「ありがとう……」

ぼんやりするのは佐久間のせいじゃない。
休んだところで症状が回復することはない。


俺はそれらを知りながら、佐久間を気遣うような素振りを見せる。優しい恋人を演じる。

佐久間は、もう随分前から、自分の食事に薬が混入されていることを知らない。
今日からかなり量を増やす予定であることも、それがそろそろ致死量に達することも、佐久間は何も知らないまま残り少ない人生を過ごす。

これが俺の消毒方法だ。セックスに汚された人間がきれいになるにはもう死ぬしかない。
俺は佐久間の最期を、息を引き取るまさにその瞬間を見たかった。佐久間はきっと俺の名前を呼んでくれるだろう。遠退く意識の中で、必死に俺を求めてくれるだろう。
その時、本当の意味で佐久間は俺のものになる。

佐久間がぼうっとしてる間に、俺は薬が沈殿しないようにくるくるとスプーンを回した。

「ちゃんと食わねぇとな。ほら」

もう一度佐久間の口元までスプーンを運んでやると、そっと口を開いた。
相変わらずその姿は汚くも見えたが、もうすぐ綺麗な佐久間を見れると思うとそんなの気にならなくなった。

口に含んで飲み込み、喉が動いたのを確認すると感嘆のため息を漏らさずにはいられなかった。

愛する人が自分の作ったものを食べて死ぬ。こんなに幸せなことはない。
佐久間の命が俺の手で少しずつ死期に迫っていくということが俺になんとも言えない快楽をもたらした。
佐久間の喉が動いて、薬が体内に入ったと分かると身体が熱くなって甘い痺れが走り、気分が高揚していくのも分かる。そしてこの感覚が一体何なのかも勿論気付いている。
俺は恋人の、佐久間の寿命を縮めることで性的快感を得ていた。

それはあまりにも歪んだ愛情だった。そんなことは分かっていたけれど、俺はこれをやめるつもりはない。
それでも、きっと近いうちに、こうやって佐久間が食事をする様子を見ることは出来なくなるだろう。少々寂しい気もするが、その代わり佐久間は俺だけのものになるのだから構わない。
佐久間が死んだら俺も死のう。この先どれだけ生きたところで俺は幸せにはなれない。それなら佐久間の隣で死にたかった。俺は誰にも看取られず一人哀れに死んでいく。第一発見者は誰だろう。ふとそんなことを考えたけれど、どうでも良かった。佐久間次郎の人生の最期に立ち会えれば、後は何も求めない。俺を看取ってほしい奴なんかいない。

自分で食べるとスプーンを握った佐久間だったが、残ったスープを飲み干そうとしたとき器に残ったものを見て、またそれを落としてしまった。


「不動……?」

この世に存在する、愛しい人はたった一人。

佐久間もセックスに汚された。俺の大事な人はセックスのせいでおかしくなる。
そして今、佐久間はまたセックスに毒されようとしている。

「なに、これ」

佐久間が悪いんじゃない。全ての元凶はあれだ。

「この白い粉はなに?」

「そんなもんあるわけねぇだろ」

しっかりかき混ぜたんだから。

「冗談やめろよ、これのことだよ」

器を見せてきてもそこには何もない。可哀想な佐久間はきっと変なものでも見ているのだろう。

「ほら、お前やっぱり疲れてんだよ。それで――」

「なに言ってんだよ、とぼけるな!疲れてるのは不動の方じゃないか!俺に何を飲ませた?なぁ、不動!」

さっきから何を言ってるのだろう。佐久間の言葉が全く聞こえない。そうか、症状が末期で言語障害が出たんだ。

「俺が飲んだのはどういう薬なんだ?俺どうなっちゃうんだよ?」

今度は少し聞き取れた。佐久間は怯えている。不安で堪らない、そんな顔。

「心配すんなよ」

俺が助けてやるから。俺がきれいにしてやるから、佐久間は何も心配しなくていい。
佐久間は台所の方を見た気がした。

「……もしかしてお前も飲んだのか?」

質問の意味が理解できない。佐久間はさっきから何を言っているんだ。

「もしかして俺が帰ってくる前に飲んで、俺の食事にも混ぜたのか?」

帰ってくる前?やっぱり佐久間はおかしい。
だって今日は

「俺たちずっと家にいただろ?」

「……不動、なに言ってんの?」

とうとう佐久間は今日のことすら忘れてしまったのか。そういえば、これは一度に大量に飲むと記憶障害が顕著に出ると聞いた気がする。今日は量を増やしすぎたのかもしれない。

「しっかりしろよ不動!今日は平日だろ?俺もお前も出掛けたじゃないか!俺は今日も帝国学園にいたんだ!……変なこと言わないでくれ」

さっきあれだけ泣いたのに佐久間はまた泣いている。
いや、さっきか?泣いたのは確か昨日のことだった気がしたが……

忘れた


「不動、病院に行こう。お前おかしいよ」

おかしいのは佐久間の方だ。佐久間はセックスのせいでおかしくなってしまった。そのせいで自分ではなく俺がおかしいと勘違いしているのだろう。だから俺が救ってやらなければならない。

「佐久間、落ち着けって」

「不動がこんなことになって落ち着いていられるか!朝まで普通だったよな?それがどうして!」

佐久間は怖いんだ。死ぬことに恐怖心を抱いている。
けど大丈夫だ。怯えることなんかない。俺がちゃんと看取ってやるから。それでお前が死んだら俺も隣で死ぬから。

佐久間だって生きていて辛いだろ?セックスに囚われた俺たちがこの世で幸せになれるなんてことはないんだ。

いつだったか、佐久間は俺のことを"完璧だ"と言った。だが俺は完璧どころか直しようのない欠陥品だ。
だから同じ欠陥品みたいなお前が愛しかった。俺だけの佐久間でいてほしかった。

「佐久間」

名前を呼び、柔らかい髪を撫でた。つるりとした手触りが心地よい。衝動的に、そのまま首に手を掛けると佐久間は女みたいな悲鳴を上げた。

「ご、ごめんなさい!……謝るから、俺が悪いのは分かってるから、離し……て」

苦しそうに顔を歪める佐久間を見て悦楽に浸っていた。あのときの、食事中の佐久間を見ている時と同じ興奮が沸き立つ。

「……不動が……嫌なら、別れ、る……」

別れる?お前は俺と別れてまたセックスに狂うのか?可哀想な佐久間。まだ抜け出せないのか。早く助けてやらないと。それに――

「お前は俺だけのものだ」

他の奴には渡さない。
手にぐっと力を込めて締め上げると、佐久間は虚ろな目で俺を見つめていた。
それがあまりにも綺麗に見えたから、口から唾液を溢す佐久間にこう言った。

「愛してる」

人生最大の幸せは、もう目の前だ。