「不動……?」

久々によく眠ることができた気がする。目を閉じるとあの日の出来事が何度も呼び起こされて、怖くて怖くて眠れなかった。ずっと抱きしめていてくれた不動の姿がないことに少し寂しさを感じる。もしかしたら買い物にでも行ったのかもしれない。それか鬼道さんのところへ行ったか――
正直どちらでも良かった。もう数日前の事を言ってしまった以上、昔のことを知られたとしても俺たちは変わらないのだから。



*



佐久間は不動と再会したとき、まだ自分を好いていてくれていたことにとても驚いた。
日本で管理サッカーが問題視され、海外で活躍していた染岡や不動も本当のサッカーを取り戻すために協力したいと帰国してきた。だから不動と同棲を始めることができ、忙しくて二人の時間を取ることは難しかったけれど、自分の家に不動の私物が置いてあるという事実に温かい幸せを感じていた。
佐久間は高校を卒業し、不動と離れた後も同性の人間に口説かれたり襲われたりと相変わらず危険な目に遭ってきた。それでも流石にそこら辺の奴等に関しては、抵抗できるだけの力は持っていたため、特に被害には遭うことはなかった。
そんなことがあったせいで、セックスに対してまだ恐怖心はあったけれど、大人になったし少しずつ抵抗をなくして、いつかは不動とセックスできたら、と考えていた。

そんな時、鬼道が帰ってきたのだ。

鬼道が帝国学園の総帥になる。その知らせを聞いたときの絶望感はいまだに覚えている。ようやく幸せになれると思ったのに、今度こそ鬼道から、完全に逃げられると思ったのに、今まで自分が作り上げてきたものがすべて壊されるような気がした。
そんな心情で会ったところで、鬼道に歓迎の言葉などかけられるはずもない。
佐久間が、約十年ぶりに再会した鬼道に向かって言った第一声は

「今は恋人がいるので関わらないでください」

だった。
久しぶりもお帰りなさいもないその態度に苦笑いしつつ、鬼道は

「不動のことか」

と言った。何で知ってるんですかと聞かれ、不動から聞いたと答えれば、佐久間は嫌そうな顔をした。

佐久間と付き合っている。
不動がそのような報告をしてきたときから、鬼道は不思議に思っていた。恋人であるなら、佐久間が中学時代どのような目に遭っていたか聞いたはずだ。しかし不動は以前と何も変わらず自分を慕ってくる。もしかしたら何も言っていないのかはたまた改変して、要するに嘘を伝えているのか、そんな風には考えた。
佐久間が愚かなのはそこで事実を伝えなかったことだ。確かに鬼道に弱味を握られているからというのはあった。だがそれ以上に、不動から"鬼道有人"という大事な友人を奪うことはできなかったのだ。
だから本当のことは言わなかった。ただ同級生に襲われたとしか説明しなかった。
不動がどれだけ鬼道を慕っていたかは分かっていたし、鬼道に関しても、あんな関係さえなければ優れたサッカー選手、または監督として尊敬できたと思うから、今までのことはなんとか忘れることにして、仕事上のパートナーとしてのみ関わりたかった。

そんなスタンスを貫こうとしている佐久間の様子は"関わらないでください"の一言で、鬼道にはしっかり伝わっていた。ここまで完璧に拒絶されると逆に爽快だとさえ感じていた。

そこでちょっとした悪戯心から、鬼道は鞄から一枚の写真取りだし、それを掲げた。逃げるのに充分な距離を取っていた佐久間は怪訝そうに見ていたが、何の写真か分かると真っ青になって写真を奪おうとした。
鬼道はそんな佐久間を突き飛ばし、しりもちを着いたところを狙ってそのまま押し倒した。

「いやだっ……やめてください!」

久し振りに佐久間を組伏すと支配欲が満たれれた。大人のくせに押し倒され、泣きながら許しを請う佐久間はとても滑稽な姿にさえ見えた。そしてそれは、加虐的な嗜好を持つ鬼道を煽るものにしかならない事を佐久間は忘れていた。

「今更泣くな。こういうことは俺と数えきれないくらいしたじゃないか。それに今は不動とよろしくやっているんだろ?それなら――」

「不動とはしてないんです!!」

涙ぐみながら鬼道の下で必死にもがく佐久間の言葉は、広い総帥室に響いた。
鬼道もあまりに驚いて、シャツのボタンを外していた手を止めてしまった。

「してないって、セックスをか?」

「はい」

「お前たちいつから付き合ってる」

「高校三年間付き合ってその後しばらく遠距離で、数ヵ月前から同棲を始めました」

「その間一度もないのか?」

「ないです。どうしてもセックスは怖かったので無理だって言って……」

だけどこれからは不動には身体を赦したい、そう言おうとする前に、鬼道の

「あり得ないだろそんなの」

という言葉が先を越した。嘲笑を含んだその台詞に佐久間は少なからず苛立ちを覚え、鬼道を睨んだ。

「どういうことですか」

「そんなに長く付き合って、セックスもしてないなんて異常だってことだよ。不動がよくこれまで我慢していたな。だがそんな関係続くはずがない、今に壊れるぞ」

「そんなことないです、俺と不動は愛し合っていますから――」

「いい年した大人がセックスもなしにか?面白い冗談だ」

"冗談"
冗談なものか。自分はずっと不動を本気で愛してきた。だからこそ今の今までセックスなしのまま関係を保つことができた。それを否定するということは、高校生のときから大切に築き上げてきた不動との絆を否定していることと同じ。
誰のせいでこんなことになったと思っているんだ。その言葉を飲み込み、佐久間は冗談なんかじゃないとだけ言った。

鬼道は自分の下で泣きながらもムキになる佐久間が面白く感じた。シャツがはだけ、露になった首筋をするりと撫でてやると、身体が嫌というほど拒否しているのが分かった。

「不動もこういうことしたいと思ってるぞ」

佐久間の口の中に指を突っ込んで無理矢理咥内を犯す。

「お前の事なんか何も考えないで、好き勝手に抱けたらってな」

指を引き抜かれると佐久間は

「不動はそんな奴じゃない」

と言い返した。しかしどれだけ佐久間が強気に出たところで鬼道を愉快な気持ちにさせるだけだった。
佐久間だって本当はセックスを介さない愛がどれだけ不安定で脆いものなのかなんて分かっている。分かっているからこそ指摘されなくなかった。

鬼道はベルトに手をかけたがその手を止め、佐久間を解放した。突然助かった事に驚きを隠せないまま、佐久間は再び鬼道と距離を取った。気が変わらないうちにと急いでボタンを留めている手は震えている。

「今日はもう帰っていいぞ」

鬼道は今すぐ昔のようなことをしたいという欲求より、二人の生活への興味の方が強かったのだ。あれだけ打算的に生きていた親友の不動が、何故このような馬鹿げた恋愛をしているのか知りたかった。そしてこの二人の関係が崩壊する瞬間を見てみたかった。
佐久間は怪訝そうに鬼道の様子を窺ってたが、もうここにはいたくないという思いが勝り、佐久間は失礼しますと告げ部屋を出ようとした。
その時だった。

「いつまで続くか楽しみにしてるよ。"恋人ごっこ"」

その侮辱的な言葉は、佐久間を狂わせるには充分過ぎた。




*




「おかえり。割りと早かったな」

「今日は顔合わせみたいなもんだったから」

俺は努めて明るく振る舞ってみたが、先程のことを思い出すとそうもいかない。
異変に気付かれないよう、そっと不動に抱きつくと優しく応えてくれる。

不動に抱き締められながら、俺は考えていた。
確かに友人でさえ自分の身体を触られるのが嫌なのに、不動になら頭を撫でられたり肩や背中に触れられることを苦痛と感じない。それでも、肌と肌を重ねるとしたら、もう十年以上、誰の侵入も許さなかった場所に不動を受け入れたら、果たして嬉しいのだろうか。普通のカップルのように快楽や幸福を得られるのか。
今、背中を撫でる不動の手が肌や秘所に触れたとしたら――

「……不動」

「どうした?」

性的な事を強いた父親、俺を性奴隷のように扱った鬼道、そしてそんな鬼道に便乗した同級生たち。
みんな俺の事を好きだと言った。好きだと言いながら、自分の欲望のことしか考えず、無理矢理俺を抱いた。
不動も俺の事を好きだと言った。だけど不動はいつも俺の事を考えて、無理矢理求めたことなんて一度だってなかった。

"恋人ごっこ"

鬼道の言葉がよみがえると言い様のない怒りが込み上げてきた。ごっこなんかじゃない。セックスもなしでここまでこれたのは、俺と不動の愛が本物だったからに決まっている。不動だけは違う、嫌だと言えば絶対に手は出さないはずだ……

いや、そうじゃない。不動だって必要ないって思ってるんじゃないか。

「佐久間、顔色悪ぃけど大丈夫か?」

「やっぱりセックスって汚い」

「は?いきなりどうしたんだよ」

「不動もそう思うよな?俺たち今までしなくて問題なかったんだしこれからも必要ないよな?」

一瞬、不動は戸惑った表情を見せたような気がしたけれど、そんなの気のせいだ。

「……なんかあったのか?」

「何もないけどそう思うんだ。本当に愛し合ってるならセックスなんか必要ない。セックスを介さないと愛し合えないのはそれまでの関係だってことだ。本当に愛しているのならセックスなんかしなくたって愛し合える、そうだよな!」

肯定して欲しかった。というよりそれ以外の返答など考えていなかった。
だから、

「そう、だな……」

と返ってきたときは、心底安心した。

「良かった、ホッとしたよ。取り乱してすまなかったな。夕飯まだ作ってないなら今から一緒に作ろうか。ちゃんとトマト食べなきゃダメだからな」

嬉しくて、先程の恐怖はどこかへ飛んでいってしまった。



*

窓の外に目をやると洗濯物が干しっ放しの事に気が付いた。ここ最近家事を不動に押し付けてしまっていたから、これくらいは俺がやりたかった。ベッドの上に、取り込んだそれを投げると二人分の衣服が混じっている。そんな事にすら幸せを感じられた。ここで、俺と不動はこれからもずっと愛し合っていくんだ。鬼道さんがどれだけ俺を傷つけたところで俺はもう屈したりしない。ここに帰ってくれば不動がいるのだから。
ベッドに腰を掛けて洗濯物を丁寧に折り畳む。何日間も不動に迷惑をかけてしまった。でもこれで終わりにして前に進もう。明日から、また幸せに暮らそう。

ふわふわしたタオルは暖かそうな色をしていた。