「コーチ……大丈夫ですか?」
時間を守れないなんて社会人として失格である。俺は時間にルーズな奴が大嫌いだ。だからまさか自分がこんなことになるとは思いもしなかった。
最近遅刻や物忘れ、仕事でのケアレスミスがこれでもかというくらい増えた。注意散漫だ、もっと集中しろ。自分が生徒に言っていた言葉が思いきり跳ね返ってくる。
本来ならここまでこの状態が続くと皆呆れ返るものだが、雅野をはじめ部員も、そして鬼道も優しかった。
「ここ何日もずっと変ですよ。お疲れなんじゃないですか?無理しないでください」
教え子に心配をかけてしまう自分が情けない。なんとかしなきゃとは思いつつ、自力ではどうすることもできなかった。
セックスがしたい。四六時中そんなことを考えている俺は最悪な色情魔だ。
*
「佐久間、ここのところ様子がおかしいがどうしたんだ」
前まではあっという間に感じた、長時間の部活動が終わり、生徒が帰った後鬼道に声を掛けられた。
「すまない。別に大したことじゃないんだ」
欲求不満で集中できないんです。なんて言えるわけもなく、俺は迷惑をかけて申し訳ないと、謝罪することしかできなかった。
そんな俺を見て、鬼道は
「じゃあ気分転換に行くか」
と言った。
「気分転換って何しに」
「まぁ行けば分かる。着いてこい」
行き先も告げられず、呆気に取られながらも俺は鬼道の車に乗った。助手席は奥さんの席じゃないのかと聞いても、そんなつまらないことは決めていないと返された。
帝国学園の駐車場を出て、鬼道の車はひたすら都心の方へ走っていく。はじめの方は普通に世間話をしていたが、窓の外に広がる景色がおかしくなってきた頃、嫌な予感がした。
「あのさ、鬼道」
「どうした」
「いや、何でもない」
そうだ、鬼道には奥さんがいるじゃないか。そんなはずない、気のせいだ。俺は自分に言い聞かせる。
しかし着いた場所を見て、俺は"嫌な予感"が的中したことに気が付く。
「着いたぞ」
目的地は高級ホテルだった。
*
気分転換しようって一体どこへ行くのだろうと思っていたら、まさかのホテルという展開に俺はどんな顔をしていいのか分からなかった。
セフレとホテルに行ったことなら山ほどある。それにこういうランクのものも、たまに金を持ってる奴が見栄を張って高いホテルに泊まろうだなんて言ってくることがあったから、別に慣れていなくて動揺しているのではない。隣にいる奴がおかしい。それはセフレでもなく恋人の不動でもなく、古くからの友人であり現在の仕事のパートナーである鬼道なのだから。
「鬼道、場所間違えたなら――」
「何を言ってる。ここでいいんだ」
「気分転換に行くんじゃないのか?」
「だから気分転換にきたじゃないか」
鬼道は平然としているが俺はそれどころではない。
「だってここホテルだろ。ホテルで何すんだよ」
「いい年してそんなことを聞くな。お前が不動といつもしていることだろ」
不動の名前を聞いた途端、なにもしていないとはいえ、こんなところにいるのは裏切り行為な気がして、胸が苦しくなった。
不動といつもしていることって、なんだっけ
目の前がチカチカして吐きそうになる。そういえば不動とはホテルなんて行ったことないなぁ。そんなことを思い出した。
「冗談はよせ。奥さんが悲しむぞ」
「あいつの事なら問題ない。今日は仕事で遅くなると言ってある」
「そういう問題じゃないだろ!鬼道は奥さんに知られなきゃこういうところに来てもいいと思っているのか」
「ああそうだ」
鬼道はあっさりと言い切った。
「……奥さんが傷付く姿は見たくないだろ」
「特に興味がないな」
「興味ないなんておかしい、愛してるのにそんな事言うなんて絶対変だ」
「佐久間、お前何か勘違いしていないか?俺は別にあいつの事なんてなんとも思ってないぞ」
「は?」
耳を疑った。現代の日本で、愛していないのに結婚するなんてあり得ない。鬼道がおかしいのかはたまた俺がおかしくなって幻聴でも聴いているのか。よく分からない。
「俺は元々結婚なんか興味ないんだよ。けどまぁ体裁を整えるには仕方ない。だから手頃な女を見つけて結婚したんだ」
その言葉に俺は絶句した。
奥さんとは何度か会ったことがある。大企業の社長令嬢だけどそれを鼻にかけることもしないし、上品で可愛らしく、とても感じのいい人だ。有人さんの良き妻になれるよう頑張ります。そんな風に言っていたのを覚えている。鬼道の事が本当に好きらしく、いつ見ても本当に幸せそうだった。
その光景を見たことがあるからこそ、俺はショックだった。鬼道は最低だ。こんなこと奥さんが聞いたらどんな顔をするだろう。あまりにも可哀想で想像もしたくない。
「人でなし」
本音が口をついて出た。しかし鬼道は怒る事もなかった。きっと自覚はあるのだろう。
「人でなしか。確かにその通りかもな。けど、こういう生き方をしているとどこかで羽目を外したくなるんだよ」
「だからって別にこんなことでしなくても――」
「人はな、他人から押し付けられたものには反発したくなる生き物なんだ。意識的に反発する奴もいれば無意識のうちにやってる奴もいる」
「あ……」
思わず黙ってしまった。
(佐久間君って純粋で潔白なんだよね)
帝国学園で言われてきた言葉がよみがえってくる。何も知らないくせに、勝手に決めつけるな。三年間ずっとそう思っていた。
そして俺は高校に入り、セックスに溺れた。
そして何度もざまあみろと思った。セックスで得る快感より、気持ち悪い奴らの理想を裏切り続けることで悦に入っていた。鬼道の言う通り、俺は自覚がないうちにあいつらに反発したくてあんな生活をしていたのかもしれない。
「これでも押し付けに応えて誠実に生きてきたつもりだ。けど最近になって馬鹿馬鹿しく感じたんだよ。今更ながらの反抗期ってやつだろう」
鬼道はこんなことを楽しそうに話している。その内容はあまりにも幼く、この人は鬼道ではないと錯覚してしまうほどだった。それくらい今の鬼道と普段の鬼道は違う。
つまり、鬼道も俺と同じように押し付けられることにストレスを溜めていたのだ。
それでもこれはあんまりだ。鬼道の奥さんだけでなく不動も傷つけることになる。それだけはできない。俺は説得を試みた。
「お前自分がやってること分かってるのか?今帰ればまだ間に合うから。帰らないって言うなら俺はここで降りる」
俺がそう言うと鬼道はフッと笑った。
「じゃあこのままお前を見過ごせと。いつもぼんやりして、仕事でミスばかりのお前を」
「それは今関係ない!」
「関係あるだろう。お前自分で気付いてないのか?俺は欲求不満ですって思いきり顔に書いてあるぞ。前から思っていたがここ最近異常じゃないか」
その言葉に俺は何も言い返せなかった。
「そんなにセックスがしたいなら不動とすればいいだろう。どうしたんだセックスレスか?不動もこんなになるまで放っておくなんてひどい奴だな」
悔しくて涙が出た。不動は何も悪くない。悪いのは多分俺なんだから――
「不動を……悪く言わないでくれ」
そう言うと鬼道に耳を軽く噛まれた。久しぶりの刺激に思わず声が出てしまう。顔を真っ赤にした俺を見て、鬼道はほくそ笑んだ。
「俺は困っている友達を見過ごせないんだよ」
なんて分かりやすい嘘をつく鬼道を見て、俺はどこか安心してしまった。
完璧な人間など、どこにもいない。