「お前と二人で会うのも久し振りだな」

稲妻町に用があった。鬼道はそこで偶然俺を見かけたらしく、声をかけてきた。久しぶりだしとりあえずどこかで話すかなんてことになったため、適当な店に入り、折角だからと佐久間を呼んだが断られてしまった。

「佐久間が今日は用事あるから二人でゆっくりしてこいだってよ」

「そうか。お前と二人というのも華がないな」

「それはこっちの台詞だ」

鬼道はかなりムカつく奴だ。それでも波長が合うというか価値観がどこか似ているせいか、昔から他の奴には言えないようなこともこいつになら言えた。俺たちは、なんだかんだで結構付き合いが長い。直接会う機会が減ったとはいえ、急遽飲みに行っても昨日まで普通に話していたような感覚になれるのだから、多分俺は鬼道が好きなんだろう。大変不本意ながら。


「佐久間とは上手くいっているのか」

突然そんなことを聞かれ、思わず反射的にああ、と答えた。
平和といえば平和だ。一応。

「お前、浮気とかは」

「するわけねぇじゃん」

「それは意外だ」

こう見えても真面目なんだよ、俺がそう言うと鬼道はフッと笑った。
本当に、浮気をしたいとは思わない。俺は佐久間が好きなのであって、そこら辺の女に興味はなかった。

「なら関係良好ってことか。じゃあ今は幸せなんだな」

「……そう、だな」

当たり前だろ、そう言い切れないことに、言葉が詰まったことにショックだった。
俺は幸せだと思っていない。心の底から自分は幸福だと、胸を張って言えない。
愛しい佐久間と一緒にいるのに、俺は不幸だった。
何故佐久間と一緒にいるのだろう。定期的にそういうことを思うようになってから、自分の中で佐久間へ対する感情が変わってしまった気がする。好きだという気持ちは変わっていないはずだ。十代の頃から、ずっと佐久間を想ってきた。ただ、その当時の気持ちとは違うものが、決定的に変わってしまったことが一つ、あった。
それがセックスへの認識だ。
昔は、身体目当てで強姦した奴らと自分は違うんだと証明したくて、それに躍起になっていたのもあり、身体を求めようとは思わなかった。それにあのときの佐久間はセックスに対して嫌悪感よりも恐怖心の方がはるかに強かったから、それなりに気は遣っていた。

だが再会後、突然セックスへの嫌悪感を露にするようになった。本当に突然。
再会当時は、鬼道が帝国に戻ってくる少し前……つまりあの雷門が革命を起こし始めた時であり、俺も佐久間も目が回るほど忙しく、これからの二人の関係をどうしていくか云々など話し合っている場合ではなかっし、何より帰宅時間もバラバラで、一緒にいる時間も多くはなかった。だから特に肉体関係もなく目の前の仕事をひたすらこなしていた。そんなある日、佐久間はなんの前触れもなく俺に言った。

「やっぱり、セックスって汚い」

また誰かに襲われたのかと聞いてみればかぶりを振り、違う、ただそう思ったんだと答えた。
それから、何かおかしな宗教にでも手を出したんじゃないかと思うくらいに佐久間はセックスを拒絶するようになった。その信念は、"本当に愛している者同士がセックスをしてはいけない。ただの性欲処理に愛するパートナーを使うなんてそれは偽りの愛だ"という怪しい聖書の一文みたいなものだった。
普段の佐久間はそんなことを微塵も感じさせないくらい明るい奴だ。ペンギンが好きで、サッカーが好きで、教え子たちの面倒見も良く多くの生徒に慕われている。そして俺に対しても、昔と変わらずお節介で口煩くて、優しかった。
ただ、セックスのことになると佐久間は別人のようになる。パニックを起こしたり、泣かれるうちに俺は佐久間を怖いと思うようになった。
そして、別に機嫌を取っているわけではないけれど、俺は佐久間に以前よりも気を遣うようになった。佐久間の信念に同調し、俺もそう思うと嘘をつく。俺は何より佐久間に嫌われることを恐れていた。
もし俺が、セックスをしたいと言えば佐久間は簡単に離れていくだろう。それが恐ろしかった。佐久間は俺のものだ。これから先、佐久間が俺以外の誰かに抱かれるような事が耐えられない。過去のことだって本当はすごく嫌だった。しかしそれはもう仕方がないから、せめて佐久間の最後の恋人になりたかった。
その願望が、結局自分の首を絞めることになり、俺は佐久間に嘘をつき、自分を偽らなくてはならなかった。
性欲を抑えて佐久間と過ごし、愛する気持ちが強くなればなるほど抱きたいという欲求が高まる、そしてそれをやり過ごす。完全なる悪循環だった。

いっそ手離してしまえばどれだけ楽になれるだろう。佐久間が今の俺といても到底幸せになれるとは思わなかったし、現に俺も佐久間といて幸せだと思えなかった。



(不動君って頭いいけど打算的に生きてそう)

(お前は物事を論理的に考えるよな)

以前同じチームにいた仲間や、今隣にいる鬼道に言われたことを思い出した。確かに俺は感情論むき出しで、ぎゃあぎゃあ煩く突っ掛かってくる奴が大嫌いだった。

(明王君は冷たい)

中学時代、付き合っていた奴ほぼ全員に言われた。俺は面倒になるとすぐに振ったから、断るときはお約束のように、"お前といてもメリットがない"と言っていたから、そう言われたのかもしれない。
彼女というポジションについた女を見て、俺はその女が与えてくれるメリットがどれだけあるのかを毎回毎回計算していた。そして、我が儘を言う奴やしつこい奴にはマイナス一点、二点と点数を付けていく。そして、デメリットがメリットを上回ったとき、面倒臭くなり切る、つまり別れを告げるのだ。

(損得だけで私と付き合ってたの?)

別れの際、彼女のポジションから外れた女は泣きながら喚いた。酷いだの最低だの騒ぐ姿を、俺は鬱陶しいと思いながら、ただじっと見ていた。このときの点数は付けない。何故なら別れた女など、点数を付ける価値すらないからだ。

佐久間と付き合ってから、恋人に対しての点数付けはやめてしまった。そんなことをする必要もなかったから。

もし今、佐久間点数を付けるとしたら……

グラスを持つと、氷がカラン、と心地好い音を立てる。中身は氷が溶けたせいで少し薄まっていた。

「不動は今も算数が好きか」

ワイングラスを揺らす鬼道の姿は中々様になっているが、それで"算数"という幼い言葉を使った為、結構シュールな光景になった。

「は?算数?せめて数学だろ」

「足して引くだけだから算数だ。懐かしいな、お前のそれを見るのは」

目を閉じて、右手の人差し指を机や持っていたコップをトントンと叩く。それが俺の、"計算"をしているときの癖だった。何の"計算"をしているかは、鬼道だけが知っている。

「女泣かせの不動明王は勘定高いゲス野郎」

なんの前触れもなく鬼道は呟いたそれは、誰が言い始めたのかは知らないが、気が付いたらあちこちに広まっていて、お陰で高校に進学後も随分白い目で見られたものだ。

「それ蒸し返すなよ」

「いいじゃないか、少なくとも俺はお前のそういうところ、嫌いじゃないぞ」

「あっそう」

「ところで誰の計算をしていたんだ?もしかして佐久間か?あいつはいくつだったんだ?」

「……聞いてどうすんだよ」

計算の結果は一目瞭然、する必要もなかった。
俺は佐久間といてもメリットよりデメリットの方が圧倒的に多い。その証拠に今俺は不幸だ。こんなに我慢を続けて何が得られるというのだろう。考えれば考えるほど無理してこんな生活をしている自分が馬鹿馬鹿しくなった。
別れてしまえ、それができないなら遊べばいい。求めてくる女なんて山ほどいるのだから。

グラスを眺めながら俺はため息をついた。そんな俺を見ても鬼道は何も言わない。共に同じ時間を過ごしているというのに、鬼道も俺も黙っていることの方が多かった。鬼道は元々お喋りな奴ではないし、俺も長い付き合いとはいえ鬼道とペラペラ喋るような気にはなれない。けれど、その沈黙は不快にはならなかった。

「不動って意外と分かりやすいな」

「は?」

「いや、佐久間のこと好きなんだなって思ってさ」

鬼道の言う通りだ。俺は佐久間を愛している。好きで好きで仕方ないから、こんな状態になりながらも佐久間を手離すつもりは更々なかった。どれだけ最悪な点数が付いても、俺は佐久間を手離せない。絶対正しいと信じてきた俺の点数計算は、佐久間の前では意味をなさなかった。
佐久間と別れた方が良い。もう答えは出たのにも関わらず、俺は実行する気などなかった。
点数なんかで佐久間の良さは測れるわけねぇよ。これは俺自身にする言い訳。
俺はとっくに気付いていた。自分はちっとも理論的ではないことや、理屈では説明できないくらい佐久間に依存してることに。
何の得にもならないことをひたすら続ける俺はあまりにも愚かだった。そう思っているのに何も変えようとしない。俺はこんな奴じゃなかったはずだ。
俺は佐久間を、セックスを怖がる佐久間を変えてやりたいと思っていたはずなのに、できなかったどころか、変えられてしまったのはむしろ俺の方ではないだろうか。

俺が佐久間に求めることはただ一つ。俺に身体を赦して欲しい。本当にそれだけだった。


「そろそろ出るか」

そう言って鬼道は財布を取り出した。

「あのさ、鬼道」

「なんだ?」

「……いや、何でもねぇ」

「そうか」


鬼道も、あの"計算"をやるのか。
愛した人で計算したら一体いくつだったのか。

"聞いてどうするんだ"としか返ってこないことくらい分かっているのに、それを無性に聞いてみたかった。