帝国の校舎は広い。前にいた学校も大きな学校ではあったがそんな比ではなかった。


「佐久間君、いきなり呼び出したりしてごめんね」

担任の元まで行くと音楽の先生である新井先生まで立っていた。

「いえ、あのご用件は」

「あのさ、佐久間君伴奏者やってくれない?」

「……え?」

担任の言葉を理解するのに苦労した。
俺が伴奏者に?なんで?
混乱している俺の前に新井先生が課題曲と自由曲であるモルダウの楽譜を持ってきた。

「さっきクラスでの話は聞いたんだけど、佐久間君小学校の時にピアノ習ってたんだよね。調査書に書いてあったわ。伴奏者はピアノ経験者じゃないと弾けないし他の子にも聞いたんだけど断られちゃって」

新井先生は困ったようにそう言った。前の時間に源田から聞いた噂を思い出す。
いじめは確かに嫌だ。俺だってできるものなら受けたくない。まぁ不動のような無神経な奴は構わないだろうが。
俺もサッカー部に入ってから沢山の嫌がらせを受けた。一番嫌だったのは先輩から交際を迫られたことだがどれもこれもうんざりした。
それだけでも嫌なのに、今の俺は片目しか見えない。視界が狭くなるだけでなく物との距離感が測りにくくなる。この生活が始まった当初はよく躓いて転んだものだ。
帝国ではサッカー部に入るつもりだったから、サッカーの方はなんとかした。だけどピアノは最近弾いていないし何より鍵盤見るのが精一杯なのに指揮者に合わせる余裕なんかない。

「どう?やってくれない?」

「俺、中学入ってからは弾いてませんよ?」

「今からやれば戻るわよ?どう?」

それなのに女教師二人がかりは卑怯だ。俺はあまり女性が得意ではなかった。お願い、あなたしかいないの、そんな風に言われ続け、もう俺にかぶりを振る権利はなく、一抹の不安を抱えつつ俺は了承してしまった。
もちろん、お願いされたから引き受けた、というわけでもない。
目のことは気になるけれど、新井先生が持っていたモルダウの譜面を見たとき、やっぱりどうしてもやりたかった。





昼休み、数学の問題で聞きたいことがあったことを思い出し、職員室へ寄った。その途中で佐久間とすれ違ったがお互い何も言わなかった。そういえばさっき放送で呼ばれていたし、よくは見えなかったが紙を手にしていたので反省文かなにかだろう。何を仕出かしたかは知らないが同じサッカー部員としては嫌なものだと感じた。

用事を済ませて、退室しようとしたとき河西先生の甲高い声で名前を呼ばれた。何かと思って行ってみれば、

「不動君不動君、指揮者やってくれない?」

唐突すぎる推薦だった。

「俺、音楽とかできないんですけど」

隣に新井先生がいたのはこのせいか。今更そう気付き、職員室など行かなければ良かったと後悔した。

「大丈夫よ不動君。中学生で指揮者経験ある子って殆どいないから大抵みんな初心者なの。ちゃんと練習すれば振れるようになるわ。どうかな」

「いやでも俺」

「ほら、不動君さっき先輩なんか怖くないって言ってたじゃない、だからね?」

怖くないとは言っていない。ただ、やりたいのにそんなことで辞退するのがくだらないと言っただけである。もうこれじゃ先輩が怖くない奴が指揮者みたいじゃねぇか。いや、みたいじゃなくてまさにそうだ。いいのか帝国学園最大行事をこんなに適当に決めて。

しかしあの状態じゃいつまでたっても決まらないだろう。そうなれば最悪、夏休みにクラスで集まって決めるなんて事もあるのかもしれない。ここで声を掛けられたのも何かの縁だ。歌おうが指揮を任されようが面倒なことには変わりもないし、ちゃんと歌えとか文句言われるよりマシな気もする。いっそやってしまおうか。

「……そんなに誰もやらねぇなら良いですよ」

「ほんとに?よかったぁ……不動君ありがとう!これで指揮者も伴奏者も決まったわ」

河西先生は安堵の表情を浮かべた。軽い気持ちで引き受けたが、実を言えば河西先生に同情したのもある。まだ教師になって間もないこの人が"指揮者も伴奏者も決まっていません"なんてことを他の教師に言うのは酷だ。どうせ頭の硬いじじいやばばあに"帝国の合唱コンクールをなんだと思っている!"なんてアホみてぇな説教を受けることにもなるだろう。何だかんだでこの先生は嫌いじゃないし、俺だって人の子だ、多少の良心はある。

「じゃあ夏休みにサッカー部の練習もあるだろうから主に放課後かな?教えるから来れるときに来て」

「分かりました。よろしくお願いします」

俺はそう言って新井先生に頭を下げ、退室した。






家に帰り、自室でモルダウを聴いていた。クラシックは教養を身に付けるためだなんだ言われて聴かされていたが、好きなわけではないからどれも同じに聴こえる。おまけに指揮のしの字も知らない俺がやっていいのか気にはなるが乗り掛かった船である。
それに、あれだけ上級生を恐れていた誰かが伴奏者になると決めたのだから足を引っ張る訳にはいかない。そういえば伴奏者は誰なのか聞くのを忘れてしまったが、クラスメイトの事はそこまで関心がない。だから誰でも良かった。しかしあんなに噂に怯えていたのに、勇気を出して引き受けたのだから大したものである。

「不動、夕飯だ」

「ノックくらいしろよ」

いきなりドアを開けられ不快な気分になる。慌てて楽譜を隠したが鬼道に誤魔化せるはずがなかった。

「随分熱心だな。あれだけ合唱コン嫌だったお前が」

「うるせーな、指揮者になっちまったんだよ」

「お前がか!?」

鬼道はかなり驚いていた。それもそうだろう。去年まで俺は客席で爆睡して鬼道に説教を食らっていたのだから。

「変な噂が流れてよ、誰も候補者がいなかったんだ」

「お前のところもか、俺のクラスもそうだったがなんとか決まってな」

「今の上級生ってそんなに柄悪ぃのか?」

「お前、自分の部活の先輩を見てみろ」

鬼道は呆れたように笑う。俺もサッカー部の先輩を頭に思い浮かべて笑ってしまった。俺たちのせいで一軍を去ることになってしまった先輩たちの恨めしそうな顔といったら、まさに見物だ。

「鬼道は何か役職ついたのか?」

「いや、部活の方に支障が出たら困るから辞退したよ。会社のこともあるし」

鬼道みたいに他のことで輝かしいものを残せる奴はそこまで必死にはならない。

「そうか」

「にしてもお前は面倒だとかなんとか言って何もやらないと思っていたから意外だ。少しは鬼道家の一員という自覚でも芽生えたか?」

「いや、そうじゃなくてたまたま職員室いたら河西に呼ばれてよ。すっげー頼まれたからなんか可哀想になって引き受けたんだ」

「は?」

鬼道は意味が分からないと言わんばかりに俺を見た。

「だからほら、誰もやらねぇからあいつも困ってて、そんなのほっとけねぇじゃん」

「……つまりお前は同情で指揮者になったのか?」

「……?あぁ。まぁそれもあるかな」

「自分のためではなくてか?」

「当然だ、自分のためだったらぜってーやんねぇから」

笑いながらそう言うと鬼道はやっぱり不思議そうな顔をしていた。
鬼道は同情で何かをすることはないのだろうか。別に今回の件は同情してどうこうなんて大袈裟なことじゃない。ただ単に河西が困ってて大変そうだし助けてやるかぁなんて軽いノリだった。そんな自分の名誉がとかそんなの考えていなくて、変な例えだけれど、坂を登っている途中で後ろを歩いていた婆さんが林檎を落として転がしてしまったら、走ってそれを追いかけ拾ってやる感覚と同じ。深い意味なんかない。

鬼道はどうだろう。道に転がった林檎を見ても知らん顔するのか。自分が登ってきた坂道をもう一度下って林檎を拾うという考えには至らないのだろうか。

それは分からないが、考えてみれば内部生の奴らは何かの役職につくことが自分のステータスを上げることになるからという理由で立候補していた。源田のように周囲からの推薦を除けば。
やりたくてやっている訳ではない、それは俺も同じだが、そういう奴らは何か根本的に何か間違ってるような気がした。

「お前って意外に人間臭いんだな」

気のせいだと思うけど、鬼道のその言葉にはどこか羨ましさが隠れていたように思えた。だが鬼道が俺を羨ましいなんて思うことはないから、単なる思い違いだろうと適当に流した。






"モルダウ?"

"ドイツ名ではモルダウだけどヴルタヴァとも呼ぶんだよ"

"ややこしいね"

"でもすごくきれいな曲だろ?"

"そうかなぁ?"

"これを作ったスメタナって人はな、生まれたときから自分の国が支配されていたんだよ"

"それって大変なこと?"

"次郎だって誰かに支配されるなんて屈辱的だろ?……って次郎には難しいか。でも自分のやりたい、したいってことを駄目って言われたり、誰かに命令されて自分が自分じゃなくなるようなのって辛いよな?"

俺は暫く黙ってしまった。支配される屈辱なんて子どもの俺に分かるはずがない。なんとか噛み砕いて説明してもらった方で、やっと言葉の意味を理解する。
自分が自分ではなくなる。それはきっとピアノを弾くな、とかサッカーをやめろ、とか好きなものを好きだと言えなくて嫌いなものを嫌えない、そういうことなのだろう。
それが良いかといえば勿論

"うん、そんなの嫌だ"

当たり前だ。

"多くの人はそんな支配から抜け出して自分たちの国を作りたいと思って頑張ったんだ。自分が自分でいられるように"

"すごいね"

"民族運動にも積極的だったスメタナは、聴覚を失いながらもこのモルダウが含まれている『わが祖国』っていう交響曲を作ったんだ。自分の国を、そして自分自身を自由にしたい、解放したいって強く思っていた人なんだろうね"

"でも、自分を取り戻すってことくらいみんなやるんじゃないの?"

逆に解放されたくないと思ってる人はいない、そう言いたかった。
次郎は賢い子だね、そう言って頭を撫でられる。帝国学園高等部の三年生にして成績は常にトップを維持しているような人にそんなことを言われても冗談にしか聞こえない。

"支配された人間は力を持てない。無力な人は支配され続けると感覚が麻痺して、やがてそこから解放されたいとすら思わなくなるんだ。諦めちゃうんだよ、自分には無理だって。だから支配されていたものから抜け出すってすごく勇気がいる。次郎もいつか分かるかもね"

スメタナがどういう気持ちであの曲を作ったかなんて本人にしか分からない。
だからこそ、後世に残された人々は好きなように解釈する。
文学や芸術が、何らかの形で、民族の意識や人類の解放に結びつく精神の働きである、という考えが主流だった時代では解釈の自由なんてものは作った人への冒涜だとも言われたけど、後に受容美学が普及したからね、そこからの時代を生きている人たちはそんなことを言わない。
感性は人それぞれだから、どんな風に思ったってその一つ一つが正解だ。

確かそんなことも言っていた気がする。


*




俺は帰宅するなりピアノの置いてある防音室に籠っていた。
ここに入るのも久し振りだがいまだに何年も弾いてきたピアノへの愛着は強い。
昔の感覚を取り戻そうと基礎練習用の譜面を開いて始めからやり直す。以前のように指が動かないのがもどかしかった。


楽譜の指示通り右手を1オクターブ上の鍵盤にずらして和音を取った時、音を外した。
防音室に不協和音が響く。ああ、またかとため息を吐いて俺は両手を鍵盤から離した。

右目が見えないだけでこんなにも違うものなのか。思わず眼帯を取ろうとしたが、それはやめた。目のせいにするのはよくない。

俺はこの曲が好きだ。何より、大好きな人が好きだと言った曲を、嫌いになれるはずがない。
いつかモルダウを弾くのが夢だった。当時の技術じゃ難しいから、中学生になったら弾くんだと心に決めていた。聴かせる相手はいないけれど、どうしても弾きたかった
それが今、合唱の伴奏という形で叶おうとしている。

絶対大丈夫。
サッカーだって一軍に入れたんだ。ピアノだって上手くいくはず。
気合いを入れ直してピアノに向かうと一つの疑問が浮かんだ。

そういえば指揮者は誰になるんだろう。

だけど考えても仕方がないし、まぁいいかで片付けた。










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