不動と佐久間がどれだけ喧嘩になろうと練習はある上に、時間は刻々と過ぎていく。今日も朝から二人は相変わらずの状態だった。しかし、その日の放課後に事件は起こった。
練習が始まる前ではあったが今日はHRもないということで、不動は早めに来て源田と佐久間と一緒に音楽室で待機していた。六時限目は数学教師の方針で最後の問題が解けた者から授業が終了となっていた。そのためまだクラスメイトも半数弱しかいないし皆自由にお喋りを楽しんでいる。そんな中、普段音楽室には来ない担任の河西がやって来た。
「あ、不動君!」
不動を見付けるなり河西は甲高い声で名前を呼ぶ。不動は何かしたのかと一瞬不安になったが幸い心当たりはない。
「なんですか?」
「前に保護者会のプリント配ったわよね?ほら、提出今日なのに不動君の分まだもらってないから――」
「あの、俺の分は鬼道が出してるはずなんですけど」
河西はえっ?と言ったまま数秒間固まり、思い出したようにああ、と一人で納得していた。
保護者会の出欠を確認するプリントは兄弟がいる場合はどちらかが代表して提出する所謂家庭数というもの。つまり不動の場合も鬼道が提出している為家庭数のプリントは受け取っていなかった。
しかし二人は名字が違うため、うっかり者の河西は不動の保護者が鬼道の父親になっているということをすっかり忘れていたのだ。
「そうだった、私勘違いしてたごめんね」
河西のおっちょこちょい振りは今日始まった事ではなかったのでもう不動をはじめとしてD組の生徒は既に慣れていた。河西はもう一度ごめんねと言いながら出ていき、不動達は苦笑いして流す。佐久間の一言を聞くまでは。
「あのさ、前から気になってたんだけど、不動って鬼道さんとどんな関係?」
佐久間にとっては何気ない疑問だった。それは小さな子が"赤ちゃんってどうやって生まれるの?"と両親に聞くようなものと同じ、特に悪意や相手を困らせようなんていう意地悪な気持ちもなにもない。しかし悪気がなければ何を言っても言いわけではないのだ。
「お前には関係ない」
不動は吐き捨てるようにそう言った。
嫌だった。佐久間のような世間知らずで、家族の愛情を目一杯受けてぬくぬくと育ってきたような奴に自分の過去を詮索されるなど冗談ではない。
しかし佐久間は不動の態度が癪に触り、食い下がった。
「なんだよ、別に教えてくれたっていいじゃんそれくらい」
"それくらい"
佐久間には家庭が崩壊したことも、親に男娼として売り飛ばされ、客に襲われそうになったことも、身寄りがなくなったために鬼道家に転がり込んだことも全部"それくらい"で片付けてしまうのか。
不動の過去は今も不動自身を縛り付けていた。大人の男に強い力で押し倒されたあの恐怖が消えることはない。
だからこそ不動に過去の話はタブーであった。初等部からこれだけは聞かれたくないものだった。なのによりにもよって佐久間なんかに、と無性に腹が立った。
何故佐久間の下らない好奇心のせいで傷を抉られなくてはならないのだ。なんの権限があってこいつは人の過去を詮索するのか――
佐久間は何一つ知らないのだから悪気があって聞いたのではない。いつもの不動ならそれを理解して冷静に対処できた。それでもこの時は自分をコントロールできなかった。
"足は絶対使うな"
中学生になればそれだけ力もつき、相手に与えられるダメージは上がる。だからもう仮に取っ組み合いになったとしても、蹴る行為は禁止だと鬼道に言われていた。佐久間を蹴飛ばしてはいけない。不動のなけなしの理性はそこまで働いた。
蹴らない代わりに不動は佐久間の顔を容赦なく殴った。その衝撃で佐久間は倒れる。それでも構わず今度は胸ぐらを掴み上げて思いきり怒鳴りつけた。
「お前なんなんだよ!面白半分で俺の詮索すんな。大体お前さぁ、会社の後継ぎとか自慢してるけど所詮外部生じゃねぇか!落ちこぼれ外部生の分際で偉そうにすんな!」
目の前では佐久間が唖然とていたが、すぐに目付きが変わった。しかしそれに気付いた時には不動も顔面を思いきり引っ掛かれていた。
「いってぇな!何すんだよ!」
二人は今までも何度も喧嘩にはなったがこのような暴力沙汰になることはなかった。そのためクラスメイトも動揺している。そこへ女子が呼んできたのだろう、新井が飛んできて源田と二人がかりで取っ組み合いを止めた。
そのまま二人は呼び出され音楽室を後にした。源田はまだヒソヒソと何か話すかクラスメイト達を見てここに外部生がいなかった事を確認し、胸を撫で下ろした。