今日は散々だった。結局練習には出られず新井先生と河西先生から警察の取り調べのように質問責めされ、何も解決せず終わった。
「どうして佐久間君を殴ったの?」
そう聞かれても答えない。話したら全てを話さなくてはならないと思ったから。佐久間も今回は口を閉ざし続けたらしく、二人の先生は困り果てていた。最終的にいかなる理由があっても暴力はいけない、だからお互い様だということになったが俺からしたらそんなことどうでも良かった。
事情を聞いた鬼道は、保健室で手当てを受けていた俺の元へやって来た。鬼道は呆れた顔をしつつ今日は先に帰ってろ、待たなくていいと言ったので、帰りの車で説教なんて受けたくなかった俺は喜んで先に帰ったものの、自室でモヤモヤした気持ちが中々拭えなかった。
宿題をやる気にもなれず暫くぐだぐだしているとノックもせずに鬼道が入ってきた。
「ノックしろって言ってんだろうが」
俺がそう言っても特に反省もしていない鬼道。プライバシーというものをこいつは知らないのか。
「悪い悪い。それよりお前、今日は久しぶりに派手にやったな」
俺の顔を見て鬼道はそう言った。
佐久間のせいで左頬にある引っ掻き傷がヒリヒリと傷む。猫か女じゃあるまいし、なんか殴られたよりもムカついた。
「なんだよ、説教ならはやくしてくんねぇか」
「まあまあそう言うな。これから少し聞いて欲しいことがあるんだ」
「分かったからはやくしろよ」
「だから俺は説教しに来たんじゃない。これを聞いたからといってお前に態度を改めろとは言わん。ただ知っておいて欲しいんだ」
いつもとは違い穏やかな声だった。いつもは佐久間の胸ぐらを掴んだくらいでも色々言ってきたのに、今回は殴ったにも関わらず怒っている様子ではない。少し不気味に感じたが何も言わなかった。
「佐久間は元々跡継ぎではなかったんだ」
「……上に兄弟いるって言ってたよな」
だからなんなんだと言いたくなったがそれは我慢した。
「佐久間には年の離れたお兄さんがいてな、一さんといったんだが帝国の中でもずば抜けて優秀な人だった」
「へー」
「当然一さんが跡継ぎになる予定だったから、体があまり丈夫ではなかった次男の佐久間はのびのび育てても良いんじゃないかっていうのが佐久間家の方針でな、それで佐久間は緑山小に行ったんだ」
緑山小は環境が整っている学校としては有名だが偏差値は低い。入学式のとき、佐久間が出身校を言い渋っていた理由はこれだ。
「しかし佐久間が三年生の時だったか、高校卒業したと同時に、一さんは突然姿を消したんだ」
「家出ってことか?」
「ああ。恐らく会社を継ぐのが嫌だったんだろう。お陰で佐久間家は大パニックだった。どんなに探しても見つからないしそれならってことで」
「あいつが後継者になったのか」
「そうだ」
佐久間は鬼道に鬱陶しいほど甘える節があることを思い出した。恐らくその兄と鬼道を重ねていたのかもしれない。
「佐久間家のような大きな会社を継ぐ人間として帝国を出ていないなんて有り得ないからな。その日を境に佐久間の生活は帝国の中等部へ行くための勉強漬けになった。けどお前も分かってるだろ。普通の学校に通っていた奴にいきなり帝国式の勉強をさせられる事がどれだけ負担になるか」
初めて帝国の問題を解いた時はとても面白かった。しかし編入したら面白さだけではついていけない。おぞましいほどの宿題の量やどんどん進んでいく授業。幼稚園の頃から塾に通っていたような同級生に追い付くのは死ぬほど大変で、編入当初はストレスや疲れから何度も熱を出した。
「それに帝国の中等部を受けるなら受験勉強は三年生の頭から始めないと本来は間に合わないからな。慕っていたお兄さんが何も告げずにいなくなったのと勉強のストレスは相当なものだったらしい。学校に行けなくなった時期もあったくらいだから」
何回か見舞いに行ったと鬼道は言っていたが俺は初耳だ。小学生のときは佐久間の存在すら知らなかったから。
「それでも入試をトップで通過したと聞いたときには驚いたよ。だがトップで入ろうがなんだろうがあいつは外部生だ」
「……」
「あれだけ大きな会社の社長になるのに外部生ということは初等部の受験に失敗した落ちこぼれ。お前はそう思ってたんだろ、佐久間のこと」
「……ああ」
「外部生と聞いてそう感じるのはお前だけじゃない。六年間あんな話を聞き続けた俺らや頭の堅い世間のお偉いさんは皆そう思う。だから佐久間はずっと、ただ初等部にいなかったというだけで負い目を感じなくちゃいけなくなったんだ。そういう周りの目があるから。すごくつまらない事だとは思わないか?」
「なあ、間接的に俺を責めてんだろ」
「そうじゃない。お前だって一年の時とはいえ余所者じゃないか」
否定しつつ笑っているところを見ると確信犯である。
帝国学園に根強く伝わっている外部生叩きのような、面倒なしがらみは俺も大嫌いだった。俺のときも、編入なんて珍しいものだったから、クラスメイトの視線は冷たいものがあった。
"編入とかいってインチキして入ったんだろ"
"鬼道家だからってずるい"
実際にありとあらゆる事を言われた。確かに試験を受けていないからどうやって入ったのかは知らないが、恐らく鬼道家の力というやつだろう。だから、インチキといえばその通りなのだが、そんなこと言われたってどうしようもないし、過去に戻ることなんて不可能なのだから、昔の事を責められても困る。
編入も一年生だったこと、そして何より俺が鬼道家の人間だと知られたことが後に却って幸いし、年月が経つことで俺への偏見は徐々に減っていって今では皆無に等しい。だが佐久間はまだまだ肩身の狭い思いが続いていく。
そう思うと俺も多少は悪かったような気分になってきて、落ちこぼれなんて言わなきゃ良かったと後悔の念が募る。
盛大な溜め息をついた俺を見てフッと笑った鬼道は部屋から出ていった。
結局、俺も佐久間もいけなかったのだ。お互いに踏み込んではいけない領域を荒らしてしまったから。俺は佐久間の事を何も知らなかった。今日まで苦労知らずでのうのうと生きてきたと、勝手に決めつけて軽蔑してきた。
自分だって端から見れば鬼道家の人間として何不自由なく育ってきたボンボン。俺が佐久間の事を知らなかったように、佐久間だって俺の事を知る由もない。
ここまで思うと流石に頭が冷えた。
*
「いくらなんでも早すぎたか」
翌日、鬼道には朝練と言って特別に車を先に出してもらって登校した。昨日殴り合いになった、例の音楽室にやって来たものの予想通り誰もいない。ほんの少しだけ、佐久間がいることを期待してしまった。
昨夜、あの事を聞いてからどうも落ち着かなくて、佐久間に一刻でも早く会わなくてはいけないような気がした。もっとも、会ったところで俺の口から謝罪の言葉が出るとは思えない。
俺は人に心から謝るのが苦手だった。ましてや佐久間みたいに敵対している奴に頭を下げるなんて死んでも嫌だ。それなのにも関わらず、こんな朝っぱらから学校へ来てしまった自分に呆れる。ここにいても仕方ないと思い、俺が音楽室から出ようとしたときだった。
「……!なんでお前が」
驚いた顔で俺を見つめてくる相手は俺がさっきまで会いたいと思っていた奴。
しかしこうもいきなり現れると焦る。謝れ、と心の中から声が聞こえるが、それでも俺は中々口を開けなかった。
しかしそんな俺より先に佐久間の方が
「ごめんなさい……」
と、謝罪の言葉を口にした。
あまりにも予想外の展開に俺は付いていけなかった。何故佐久間が謝っているのか、俺には理解できない。
「何でお前が俺に謝ってんの?」
「昨日……鬼道さんから聞いたんだ……お前の事。俺何も知らなかった。それなのに興味本意であんなこと聞いて……本当にごめん」
佐久間の声は震えていた。それはうわべだけじゃなくて、本当にちゃんと謝っているんだという証拠。
こいつは昨日まであれだけ敵意を向けていた相手に、ここまで素直に謝罪を出来るのか。俺だったら出来ない。悪いと思ったって幼稚なプライドが邪魔をする。
そこで気付いた。ガキなのは佐久間じゃなくて俺じゃないか
「お、俺も悪かった」
このまま黙っていたらそれはそれでガキみたいだからなんとかこれだけは言った。俺にはこれが精一杯だ。佐久間はそんな俺を見てありがとうと、そう言った。
そして――
「なぁ不動、折角早く来たんだしこのまま練習しないか?」
初めてだった。俺たちが自発的に一緒に合わせようとしたのは。新井先生から個人的に見てもらったときはお互いに何の問題もないらしく、何故合わないのかと先生が首を傾げたくらいだったから、よほど俺たちは"相手に合わせる"ということを放棄していたのだろう。そんなことを思い出して苦笑いした。
「遅れた分はきっちり取り返すからな!」
「もちろん、頑張ろうな」
俺の合図で佐久間の指が鍵盤に触れ、曲が始まる。すると、以前とは振っている感覚が違った。
つまづいては何度もやり直し、今までガタガタだった曲を少しずつ修正していく。HR五分前を知らせるチャイムが鳴った時には、俺たちはこの作業に楽しみを覚えていた。
「そろそろ行かなくちゃな」
流石にこの朝練だけでは完全に修復するのは無理だ。それでも確実に良い方向へ進んでいっているのが分かる。
慌てて片付けをしていると、いつからいたのか分からないが新井先生が立っていた。
「昨日あんなことがあって心配してたけど、どうやらその必要はないみたいね。素敵な演奏だったわよ」
「ありがとうございます」
「でも、まだまだ。課題はいっぱいあるし、これでみんなと合わせてどうなるかが重要なんだから。沢山練習して、素晴らしい作品に仕上げなさい」
「「はい!」」
二人揃って返事をしたときには思わず笑ってしまった。あんなに嫌いだった佐久間と、こんな風に笑い合うことができるなんて、とても不思議な気分だ。だが悪い気はしない。
さあ、二人ともHR始まるわよと新井先生に言われ、俺たちは競い合うみたいに走って教室まで向かった。
*
「このお喋り野郎が」
部活の時間になり、着替えをしている鬼道に投げ掛けた第一声がこれだった。
「なんのことだ?」
「とぼけてんじゃねぇよ、お前佐久間に――」
「ああ、だからお前にも佐久間の事を話したじゃないか。どちらかだけに教えるなんてフェアじゃないからな」
「ったく」
まったく悪びれた様子もない鬼道を見てこれ以上何か言う気も失せた。しかし今回は鬼道のお陰で和解できたというのもある。だから少しだけ感謝もしていた。
にしても鬼道が今回の件に首を突っ込んだのは意外だった。鬼道はこんなお節介染みたことをする奴じゃない。ただ、俺はそんな鬼道が嫌いではなかった。
「鬼道って意外に優しいんだな」
「いきなりどうした」
「いや別に」
そうだ、元々鬼道は優しい奴だったじゃないか。俺はそんな鬼道の優しさに助けられた。あのときの鬼道の行いは、どう考えても危なかったし間違っていたけれど、ガキなりになんとかしようと思ったのだろう。正義感の強い奴だった。そして、俺を家族として受け入れ、慣れない学校生活に戸惑う俺を助けてくれたのも鬼道だった。
成長するにつれ人間味のない冷たい奴になったと思いつつ、やっぱり鬼道は鬼道だった。本質は何も変わらない。
「お前も充分人間臭ぇって事だよ」
そうか、と言った鬼道は少し嬉しそうな顔をしていた。それを見て、俺はどこか安心した気持ちになった。