アラームが呼ぶ前に目が覚めた。外は少しだけ明るいが、青みの方がうんと強い。体を伸ばす。ごろりと寝返った。やつは、まだいなかった。
 またか。なんて軽く落胆し、しばらくぼんやり仰向けた。

 二人で寝るにはちょうどよく、一人で寝るには贅沢な広さをたたえるマットレス。どんなに広くて快適でも体を丸めて眠る癖のあるわたしには、持て余し気味なセミダブル。
 寝具コーナーで延々と互いのこだわりをぶつけ合い苦労して選んだにも関わらず、あいつの嗜好満載なお揃いの枕が二つ埋まるのは実際そうそうないことだと、気付くのに時間はいらなくて。一つより二つありゃいいなんてそういうあれでもないだけに、正直ちょっと邪魔臭い。
 一つありゃ十分事足りる。かと言ってしまい込んでしまうのは、さすがに少し気が引ける。こうなることが予想できていれば低反発を買っていたのにと凝り固まった首を捻り思う。わざわざ一緒にしなくても、本当に自分が欲しかった好きなやつを買えばよかった、うん。
 なんてことを考え目をつむり、それから少しして目を開けた。タオルケットを剥ぎ取って、のそのそ這うように起き上がる。
 朝、それも仕事のない休日に起き出すには幾らかまだ早く、不満足な体がずるずるとわたしをベッドに誘ったが、振り切ってTシャツを脱ぎ捨てる。畳み損ねた山を掻き分けて適当な服を選び出し、鏡の前で身に着けて。スマホに煙草にコインケース、傷だらけのジッポにイヤホン。大きなポケットに次々と必要な荷物を詰め込むと、まだ暗い外に抜け出した。

 着信ランプの瞬きと、履歴に残る名前。AM2:10。真夜中の一件の着信に留守電は残っていなかった。
 メッセージを打って送信し、ポケットの中に押し込んだ。町はまだ眠りの中らしく、新聞配達の自転車がきいきい軋んで横切った。素足で突っ掛けたスニーカーにきちんと踵を押し込んで、角を曲がりまっすぐ歩いてゆく。
 大きな生け簀が自慢の魚屋や青い看板の理容室、行列が絶えないラーメン屋。明かりを落とした店先はどこもまだ目覚める気配がない。静かで誰一人見当たらない空っぽなアーケードの真ん中を颯爽と歩いて後にして、眠たそうに光るコンビニの看板に吸い寄せられるようにドアをくぐる。

「いらっしゃいませー」

 気だるい目と声が寝起きのわたしを出迎えた。ショーケースのガラスを拭きながら、やっつけ仕事なセールストーク。スパイシーチキン今日だけ百円て、売る気あるんだかないんだか――どうでもいいけど客の目の前で大欠伸はよくないよ山根君。わたしだから別にいいけどさ。
 横目でちらりと盗み見てドリンクコーナーの前に立つ。エスプレッソかラテか迷いながらスマホを耳に押し当てる。変な女出たらちょっとやだ。

「おかけになった電話は、現在電波の――」

 見知らぬ無愛想な女の声が、あんた誰? 晋助の何なわけ? て、嘲笑うようで気に食わない。あーあー何これまたですか。終話ボタンをタップしうなだれる。あれほど充電を忘れるなと念を押したにも関わらず、つくづく懲りないお馬鹿さん。それでいてしょうのない時にしょうのないスタンプのやり取りでトークルームを埋め尽くすものだから、尚のこと不愉快。腹が立つ。
 あんパンとエスプレッソをレジに持って行き、ついでにガムも追加した。自分からかけといて音信不通って、彼女心配させんなよ。仕事だからってちゃらちゃら着飾って、誰のだか知らない香水ぷんぷんさせて朝帰りなんかしてんなよ。
 わたしだって確かにそれなりに、割り切って付き合ってはいるけどさ。連絡くらい普通に取らせろよ。勝手に眩ませたりしないでよ。電池切れなんて知らないふざけんな。彼女の心配なめんなよ。それもこんな朝に限って、さぁ。ほんと馬鹿。いっぺん思い知れ。いつかなくしてようやっと、せいぜい自分の愚かさに絶望してハゲればいいと思う。それで、あいつと同じくらい、その馬鹿に惚れる彼女のわたしもね。せいぜい苦しみ抜けばいい。

 かさかさと音を立てるビニールをぶら下げて大通りを歩いていた。二、三回かけ直し待ってみたが、電話はやっぱり繋がらない。朝が少しずつ近付いて、世界が明るくなってゆく。歩道橋の階段を上りながら、イヤホンを耳に押し込んだ。雪国に生まれた少女が大人になり、少女のような声で愛を歌う。透き通った光を詰め込んだ、七色の粒が降り注ぐ。
 わたしが生きるこの朝は、誰かによって作られた。誰が選んだわけでもなく、望んでなんていなくても、勝手に朝はやってくる。ひんやり冷たい暗幕をそろそろと開けた誰かさんは、きらきら眩しい光源をそこら中どこかしこぶちまけて、空っぽのバケツを手に笑う。
 ぶつり。途切れた歌声に、電源の切れたスマホ。私も馬鹿者だ。充電を忘れていたらしい。イヤホンを耳に挿したまま歩道橋の真ん中で立ち止まる。手すりにもたれて座り込み、コンビニの袋から取り出したあんパンをすかさず頬張り食べ尽くす。

 二十年前のこの朝に、母親の命と引き換えに産み落とされた小さな幼子は、晋助と言う厄介者として誰からも愛されず育てられた。愛に触れず愛を注がれず欲しかったぬくもりを知らぬまま、この世で生を重ねてきた。
 生まれ育った環境を否定なんてできないし、覆すなんてできやしない。愛されることを知らないで大人になってゆくあいつの暗闇は、わたしなんかじゃちっとも癒せない。照らせない。満たせない。分かっている。たかが恋人の分際で自惚れてはいけない。それも当前だ。

「おい」

 けれども、少しだけ。特に、今日のような朝は、少しだけ。
 ふと、頭上から声がして目の前にすっと影が落ち、不意打ちの強い握力でエスプレッソを持つ手を掴まれた。
 もぐもぐと顎を動かして噛み下すわたしを見下ろして、腰を折ったそいつは女物の甘ったるい香水と煙草の匂いがごちゃ混ぜな、あの匂いをぷんぷんさせていた。わたしのあまり好きではない、つるりとした光沢のつま先がわたしのつま先を挟んで向き合って、目を上げるとやつの隻眼が思いの外至近距離で驚いた。

「何してる」
「あ」
「家出娘」

 くつくつと笑う声がして、指輪だらけの細く長い指がイヤホンを耳から引っこ抜く。左手はわたしの右腕をぐっと掴んだままである。

「何聴いて――あ? 鳴ってねぇぞ」
「あぁ、充電切れたから」
「外すだろ普通」
「面倒じゃん」

 あ、充電と言えばさぁ。ようやく空になった口で話し出すと、晋助は目を細めながらわたしの説教を聞いていた。
 馬鹿なの? なんて愚痴だか悪口だかいい加減分からなくなったがしかし、やつはちっとも怒らない。それどころかふっと穏やかな、ほころんだ表情を浮かべながら、悪かった。なんて。

「どうしたの?」
「あァ?」
「晋助が素直に謝るとか気持ち悪い」
「……」
「もしかして、やましいことあんの?」
「くくっ、あったらどうすんだ?」
「さぁ、どうもしないけど」
「……」
「嘘嘘、だから睨まないで! どうするか想像してみてよ」

 ひっぱたく? わんわん泣きじゃくる? それとも髪の毛鷲掴んで商店街を引きずり回すとか?
 顎を掴まれて上を向くと、何とも言えない表情でわたしを見つめるやつがいた。何にも言わずに黙り込み顔を近付けた晋助に、目を閉じるわたしは何となく、想像できたかもしれない。

「おっかなくて悪さなんざできねぇな」
「ははっ、わたしもそう思う」
「言うじゃねぇか」
「うん、信じてるよ」

 安っぽい言葉かもしれない。不安は尽きないしなくならないし、これでも精一杯の強がりだ。必死なんだ。正直潰されそう。
 だけどわたしはあんたをね、信じたいし許したい。何があっても受け入れて、あんたを全力で受け止めたい。間違ってどっかに行っちゃわないように、力一杯ぶん殴るかもしれない。襟首掴んで居直らせ、力一杯叱るのかもしれない。でもきっとそれは恐らくね、晋助だからそうしちゃうわけで。晋助だからそうしたいのだ。
 だから、あんたもわたしをね、信じてついてきて欲しい。この手を離す日がきたとしても、見失わず覚えていて欲しい。

「てなわけで、あげる」
「……」
「誕生日」

 おめでとうなんて真っ直ぐに言えた試しは未だない。言う気もさらさらない上に、ましてや用意周到にプレゼントを渡して満足するような、ありふれた愛情も優しさも気紛れも糞もないけれど。
 袋をがさがさ弄って、さっき買った緑色のガムを晋助の胸元に突き出した。訝しげに見つめる晋助に、早く。って急かして押し付ける。

「晋助、あのね。わたしはさ」
「あぁ」
「えっと、うん」

 何だろね。上手く言えないけどたまにはさ、こういうのもいいんじゃないかって。たまにはこうしてあんたにさ、言っておいても損はないと思うんだ。
 色々悩みは尽きないし、すれ違ってばかりの毎日でなかなか思うようにはいかないし。今日だってこんな感じだけど――これでもわたしはあんたがね、生まれてきた今日が嬉しいよ。そわそわして妙に身震いして、わけもなく満たされていっぱいで。切なくて苦しくて熱くって、泣き出したいくらいぐちゃぐちゃで。抱き締めたくて、壊れちゃいそうで、体中いっぱいいっぱいなんだ。
 あんたはどう? まぁそんなもん、あんたにとっちゃどうでもいい、さっきわたしが食べたあんパンの包み紙みたいなものかもしれないし。自分が生まれた記念日なんて、疎ましいものかもしれないね。
 だけど、わたしはいとおしい。あんたが生まれたあの町も、あんたが憎んだあの朝も、あんたと出会ったこの町、あの教室。屋上、ブランコ、通学路。あんたと暮らすあの部屋に、朝焼けを望む歩道橋。わたしにとってはそれなりに、大切で意味があるんだって。守ってあげたいとかそんなこと実は願っているんだって。嘘みたいな本音のほんとの話、今日くらいは少し知って欲しい。

 受け取った晋助の指先がガムを摘んで離れてった。あぁ。なんて小さく頷いてわたしを見下ろした口元が綻んで見えてこそばゆく、ふわふわと視線を泳がせる。
 橙と水色が反射した黒い黒い瞳に少しだけ、体温を感じた夏の朝。走り抜けた自動車の振動でふわふわと足下が揺れていた。風が吹いて、やつが遠くを見て。さらさらなびく髪の隙間からわたしを見つめたその眼差しがわたしの瞳に焼き付いて。
 歩道橋の真ん中にしゃがみ込み律儀に向き合うわたし達。わたしと晋助の指先は、今、少しだけあたたかい。





君がうまれた日
100810(0727) 誰かが、
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