あの駅まで570円。
それは郷愁だったのかもしれない。鈍行電車は心地よく揺れている。

盆の休みに家に帰った。2年ぶりの帰省だった。
久しぶりに会った妹は、落ち着いた成りをしていた。落ち着いた色の、丈の長いスカートを履いている。話し方まで大人びたような妹は、大人びたことを俺に言う。衰えていく両親のこと。俺と恋人の将来のこと。机の上に組まれた妹の手指の、切り揃えられた爪が、美しい曲線を描いて並べられているのを俺は見ていた。人生の最も美しい時を生きている妹を、清らかな青年が愛するようにと、切に願う。

俺は妹と、両親を心から愛している。幸せになってほしいと思う。それなのになぜだろう。家から脚が遠のくのは。

世は盆休みで浮かれていても、俺は明日には仕事で九州まで出なければならなかった。電車も、新幹線も、飛行機も好きだ。あの揺れは心地いい。晴れた風景を眺めるのもいい。福岡へ向かう飛行機で、どこかの国に行きたいと思う。
頭の中に浮かんでは消える些事が暗い色ばかりをしているので、どうやらいま自分は落ち込んでいるのらしいと、思った。
なんにしろ一度都内のアパートに戻らなくてはならないので、俺は駅に向かった。鈍行と快速を乗り継いで数時間、アパートに帰れば恋人が待っている。
久しぶりに利用する地元の駅は、昔思っていたよりも随分小さい。電車の本数も少ない。次の電車まで十分以上あったので、待合室に入った。塗装の剥げたライムグリーンのベンチと、効きの悪いエアコンの吐き出す匂いの、思い出させるものがある。一番奥の長椅子で、俺を待っている、制服の、少年。
時間が迫ってきたため待合室を出ると、ちょうど、反対方面の電車がホームに滑り込んできたところだった。
電車の速度が徐々に落ちて、座席に浴衣姿の少女らが座っているのが目に入った。煌びやかな夏だ。
はたと、今日その先の駅で何があるのか思い当たった。俺はその駅に、降りた事がある。
電車のドアが開くまでにある考えが浮かんで、振り払えないでいた。この電車に乗って、確かめに行こうか、と。今日、あの河川敷で花火が上がるのかどうか。
発車のベルがなって、急かされたような気持ちになり、俺の足はホームと電車間の峡谷を、跨ぎ超えていた。背後でドアが閉まる。


俺は心から恋人を愛している。幸せになってほしいと思う。なのになぜだろう、アパートから足が遠のくのは。

浴衣の少女達の笑い声が、風鈴の音のように転がる。恋人には、少し遅くなると電話を入れれば問題ないだろう。
俺はボックス席に腰を下ろす。乗客の少ない車内は、電車の走る轟音の中で、静寂のようだ。
570円分の距離を電車は走り、目的の駅に俺を降ろした。少女らが、下駄の音を響かせてホームを歩く。やはりこの駅で今日、花火があるのだ。随分電車に揺られていたので、もうとっぷりと日が落ちていた。
河川敷は駅からすぐだった。疎らに人が腰を降ろしている様子は、記憶の中のそこと変わりがない。あの時座ったようだと思われる場所に、腰を下ろす。花火まではまだ少し時間があるようだ。

何年も前に、少年と二人であの電車に揺られていたことを、思い出そう、と思う。もう朧げな霧の向こうにしか思い出せぬ、あの少年。夏の夕方の郷愁と、脈絡を得ぬ情緒に乗じて、思い出すのもいいだろう。
少年の鞄の担ぎ方、シャツの匂い、言葉少なに交わされた冗談の数々。しとりと暖かい手のひら、ホームを歩いていく後ろ姿。
今はただ、懐かしいとだけ思い出される数々のことがら。凪いだ海面のような晴れた感情のあるばかりだ。あの頃は、大きな感情の起伏があったようだと、何となく、思い出せる。北原葵は、俺のこめかみに唇を寄せるのが好きだった。

子連れの家族が、近くに座った。五歳くらいの少女は、道中で既にくたびれたような様子で、ごねていた。
「花火、このあいだもみたでしょ。このあいだのよりすごいの?」
「どうかな、そんなにすごくないかもな。」
父親らしい人物が答えた。
「一番おっきい花火じゃないと、見たくない!いっちばんおっきくて、一番綺麗な花火じゃなきゃいやだ!」
少女は帰りたいと言って父親の服の裾を乱暴に引っ張る。父親らしい男は少女を宥めるように抱き締めると、言った。
「大きくても小さくても、何も変わらない。何が変わっても、同じなんだよ。花火ってね、約束なんだ。毎年ここで上がるっていう、変わらない約束。」
「どういうこと?」
「来年も、その次もお父さん、絶対ここにくるってこと。ずっと毎年、お前に花火を見せてあげたいってこと。」
父親らしい男はそう言って、少女のこめかみのあたりに鼻をうずめた。

ドン、と遠くでひとつ鳴って、心筋が震える。拍動を促す音だ。
周囲が俄かにさざめきたち、空がパラパラと明るく散った。
何ひとつ、あの頃と変わらぬ花火だった。
花火が上がる。ドン、ドンと心臓が鳴り、血液が体に満ちていく。
この花火が終わったら、親に電話をしようと思う。次の連休にでもまた顔を出したら、妹も両親も嬉しそうに、せかせかと飯を用意してくれるだろう。それを旨そうに食おうと思う。
そしてこれが終わったら、早くあの小さなアパートに帰ろう。出来る限り強く、恋人を抱き締めよう、と思うのだ。





(thanks for 1st anniversary)


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