あの街まで570円。夕方なのに人の少ない電車は、僕らが三年前に降りた駅へと向かう。
あのなつの日を、忘れないでしょう。



はじめて手を繋いだ日を、僕らは覚えていない。僕らの間にはいつも、なみ縫いの糸のように、互い違いに行き交う熱があるばかりだった。怯えて重ねられなかった熱が、僕ら二人を縫い合わせた。例えばくちびるを合わせることも、体に触れることも、その行為以上の意味を持たない。むず痒くくすぶる感情の、喉から溢れてしまいそうなとき、僕らは黙ったまま抱き合った。僕らはお互いを引き止める約束を持たなかった。それはその熱の終わりが、ふたりの関係の終わりと同義なのだということを意味する。じわじわと体を蝕むようなあの熱を、腹のそこからこみ上げるあの熱を、何と呼ぶべきだったのか僕は知らない。きっとこれからも分かりはしないのだろうが、そこに何か名前があったらどんなによかっただろうと今では思う。

一度だけ秀さんと彼を囲む友人の姿を見かけた事があった。僕がまだ中学生で、秀さんが高校生だったころのことだ。秀さんと、それを取り囲む人々の瑞々しい笑顔を僕は見た。そして、僕らの間に約束など有りえないということを悟った。なぜといって、秀さんの未来はこれほどまでに輝いている。僕が女だったら或いは、僕らの前に未来の形が示されていたのかもしれないと思うこともあった。


だからあのなつ、花火が見たいと言われたときは、驚いた。


考えてみれば、あの花火以外秀さんが僕をどこかに誘ったことはなかったかもしれない。
当時は自覚もなかったが、僕はすっかり浮かれてしまっていたようで、何日も前から花火の見える場所をほうぼうで聞いてまわったりした。
生成りのラフなシャツを着て、秀さんはやってきた。
田舎の、小さな花火大会だったので、河川敷は人に溢れるほどではなかった。近所の家から出てきた人たちが、ぽつぽつと空を見上げていた。
夏の夜というのは、どうしてああも心臓を擽るのだろう。
昼の暖かさを残した土に、僕らは腰をおろした。何気ない会話を言葉少なに僕らは交わした。
「実は僕去年も見たんですよ、花火。ハハオヤの実家に行った時。そこ有名な花火大会があって。」
秀さんは僕と目を合わさずに話すことが多かった。花火の上がるであろう夜空を眺めたまま、彼は聞いた。
「やっぱ、すごかった?」
「うん…。花火ってあんまり違い、分からないんだよな。
結局いつも同じくらい…胸に迫って…。」
和太鼓を深く打つような音が腹に響いて、秀さんの顔を、花火の光が滑る。何かを言い含んでいるような表情だった。秀さんは言葉を咀嚼して、その味を語らずにいることが多かった。だからもし僕が彼の考えを知りたいと思ったら、問わねばならないのだった。

「どうしたの?」
「え?」

秀さんが少しだけ緊張したような顔で、振り向いた。
言葉にするのを逡巡するように秀さんは黙っている。でも、冗談で誤魔化さない所をみると、僕に伝えたくて噛み砕いた言葉があるのだ。僕は黙って待った。

「…花火ってなんかさ、毎年一緒でも、違っても、関係ないよね。」

すこしして、秀さんはそう言った。言葉を選びながら、一語一語を僕の前に並べるように話す。

「なんだっていいんだ、色も形も。花火が上がって、夏、見にくる、その約束が、なんかすごくいい。」

その言葉の真意をはかりかねてそっと顔を伺うと、気まずそうに目が伏せられた。秀さんは真剣だった。

「俺、花火好きなんだ。」

秀さんの投げた大切な何かを取り落としたような気がして、僕は焦っていた。
秀さんは「そんだけ!」と言って倒れかかってきた。それは可愛らしい仕草なんかではなく、本当に転ばせてやろうという乱暴なじゃれつき方だったので、僕は笑って応戦した。ふたりで芝の上に転がりながら、しかし花火を好きだと言った秀さんの、真剣な目の事を僕は考えていた。気まずそうに笑いながら、少し悲しそうだったあの目。花火を映して僅かに煌めいていたあの目。僕は今もありありと思い出せる。だから今もこうしてここにいるのだ。
ひとしきり笑って秀さんは言った。

「来年も、くる?」



結果的に僕らは三年間を共に過ごしたが、花火に行ったのはその一度きりだった。
次の夏、僕らは花火を見ることより秀さんのアパートの布団の上を転がり回ることを選んだし、その次の夏、僕らが日々を共にすることは二度となかった。
三年がたった今、あの時の河川敷にひとり腰をおろしているのは、秀さんのあの目を見てしまったからだ。あの、悲しみと幸せとを孕んで、きらきらひかった瞳のあったからだ。
あの時の秀さんがどれだけ真剣だったか、僕は知っている。

どおんと低音が僕の体を打って空が明るくなる。
二人でみた花火はどうだったろう。こんなふうに息の止まるような音で弾けていただろうか。
そんなことは構わない。今年も花火があがって、僕がここにいる。それだけでいいのだ。
時折明るく照らし出される河川敷の、土を指で掻いて掘り返す。柔らかくなった土を、小さく盛る。祭りで買った金魚の、ささやかな墓のような風情のそれを残して、僕は立ち上がる。


僕らの感情が、彼のいう「花火」のようであったら、どれだけ穏やかだったろう。僕らの関係が掛け値なしの約束であったら、どれだけ優しかっただろう。
だから僕は、今も思うのだ。
僕の体よ、ここに眠れと。

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