明け方の空が白み始めていた。
少女の家の周りの草花が静かに解けようとしている。
今までは空の明るくなる頃には自宅のベッドに戻っていたのだが、その日の男は朝陽が昇るころになっても冷えた外気に震えていた。
少女が寝室におらず、少々家の中を探さなくてはならなかったのだ。


空っぽのベッドを見て、男は小さく舌打ちをした。少女が自分の来訪を部屋で待っていない事は、久しく無かった。
まだ少女が男から逃げる気力を残していたころ、今日のような日は、逃げ回った戒めとして酷く痛めつけてやったものだ。しかし、少女の諦めの色付く過程を見て来た男は、最早拷問が必要でないことを知っている。なぜ少女がその日に限って逃げたのか、見当もつかなかった。

夜の明ける頃、男はやっと家の裏に小さな影を見つけた。コートの裾が土に汚れることも厭わずに蹲る、赤髪の少女。
男の気配に、彼女はくるりと振り向く。幼さと、妖艶さが同居した奇妙な仕草だった。
「ごめんなさい、もうそんな時間。」
「逃げる積りだったのか。」
男が淡白に尋ねれば、少女は眉を下げて笑った。
「いいえ。今年はどんなお花が咲いているのかなって思って。」
彼女はしばしば、泣き出しそうな顔で笑う。
「ゼラニウム。軍人さん、知ってる?」
男は、急激な気圧の変化を感じていた。網膜の毛細血管が血液をどくどくと流して、視界が白む。
眼前に茫洋な谷の広がっているようだった。身を焦がす焦燥。己が、臓腑から欠落していくような感覚。そしてその虚ろの感触を確かめている様な、空恐ろしい気持ちで立ち尽くしていた。
昇りつつある朝陽が、赤い蕾を照らしている。
少女の言い種だと、花の世話をしているのは彼女ではないのだ。
確かに何年も"住むもののいない"家にしては、随分と美しく手入れがされている。花壇の花は弾けそうな蕾の中で朝が来るのを待っているし、朝露に湿る赤い煉瓦には、蔦一つ絡まっていない。今日までその異常に気づかなかったのは、男がその元来の生真面目さ故に、ただ一日たりとも、夜の明けてから床に就くことがなかったからだ。
しゃがみ込んで、地面に手を這わすと、足跡を見つけた。
一見して細身の男のものだと、彼には分かった。
誰が種を蒔き、誰が水をくれているのか。男の精神がそれと認めるのを拒絶して、一つの可能性を無意識のみなもに沈めてしまっていた。
理由の分からぬ焦燥ばかりの募る男は、無意識に突き動かされる様に、自分の靴を退けて、その後に残された土を見る。
自分の靴跡。5年前から履いている革靴の、跡。
果たしてそれは、花壇の周りの足跡と一致していたのだった。



少女の咽びを聞いた。
自分の手が少女の首をぎゅうと掴んでいる状況が、余りに他人事のようにそこにある。
男は自分の行動に驚愕して、火に触れたかのように少女の首を離した。
激しく喘ぎながら地面に伏す少女に、男は噛み付くように吠えた。
「お前は下らない餓鬼だ!お前の人生は下らない。
何の意味もない死だ。お前は、お前の名も知らぬ男に、なんの感慨もなく殺される。俺に毎日殺されるために、お前は生まれて来たんだ。」
少女はきっぱりとした口調で言った。
「あなた、生まれたばかりのこどものよう。」
男の旋脚が少女を横薙ぎにする。
それは五年間男が続けてきた、効率と理性に統治された暴力などではなかった。
口から出るに任せて吐き出された言葉は、在り来たりな呪詛の形ばかりしかとらぬ。
それに比べて少女の言葉は美しく絹の衣を編んで、男の首を締めた。
「死ぬことに理由なんてないのよ、軍人さん。
けれど生きるには理由が必要だわ。とても辛いことだもの。
私はもう生きてはいないけれど、彼は今年も花を植えて、来年、再来年、十年後、五十年後もそうして、生きていけるのでしょう。」



男は少女に背を向けて走った。
これが戦略的撤退などではないのは、男が一番知っている。敗走である。
転がるように野原を抜け、街道を駆け、我が家へ。我が家へ。
気持ちが悪い。なんだここは。どこだここは。
水色の街並みに、歩く人間。白い家、壁。朝陽、街路樹、小売店、踏切。
脚がない。走る脚がない。ナイフがない。血液がない。拍動が、酸素がない。
ぎゃあぎゃあと激しい悲鳴を上げながら男は走る。
おめでとう。青年よ、お前は今生まれたのだ。
走れ、我が家へ。我が家へ!



家には誰もいなかった。







2013/3/22

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